2013年12月10日火曜日

女がお母さんに日本で住むと話した。
日本から帰ってきた最初の週末にお母さんがわざわざやってきた。私と話したいと言って。
私を聞いた。まぁ要は心配なので、行かせたくない、という親心からでてくる何の根拠もない戯言だった。私は北朝鮮やソマリアで暮らそうといってるわけじゃなんだ、程度の感じなので噛み合わない。まぁ永久に噛み合わないだろう。どうでもいい。

日本に行って帰ってきた。帰ってきた。
私は帰ってきたのか?台湾に。戻ってきたとでもいったほうが正確なのか、最近ではよくわからなくなってきた。さして重要ではないが。
行ってきたのは妹の結婚式のためだ、妹の結婚式で親父が少し涙ぐんでいたのが意外だった。
私はもともと微妙な関係だった妹と、新しい義理の弟の距離感をどうしたらいいのか、まったくわからない。
両親に日本に帰って来て一緒に住もうと思っていると、伝えたが反応は芳しいとは言いがたいものだった。
人生ってのは普通に生きてるだけなのになんでめんどうなんだろうか。

2013年11月11日月曜日

休み中、女が一時帰国のスーツケースに荷物を詰め込むのを横目で見ながら、ずっとサンオブアナーキーをずっと観ていた。観ていた。
アメリカのモーターサイクルギャングを描いたドラマだが面白い。プロットはハムレットから持ってきているようだ。(着想得たレベルだが)
プロットがシンプルで力強いから面白い。
妹の結婚式のために一時帰国することになった。
山ほど土産を詰め込まれたスーツケースは悲鳴を上げている。
女は日本に行くための服がいると言い、日本でも服を買わねばならないとテンションが上がっている。
映画を観に行った。
『激戦』というタイトルだった。久しぶりに泣けた。
香港映画で、格闘技をテーマにしたアクションの映画だ。日本じゃいつ公開されるかもわからないような映画だ。

昔、総合格闘技のチャンピオンだった男がいる。だが金目当てに八百長をやり逮捕され、栄光の時間は自ら終わらせた。
出所後、自暴自棄な生活を始める。そして男は中年になり香港でタクシーの運転手をやっている。今でも自暴自棄だ。マフィアに借りた金が返せず、チンピラたちに追い込みをかけられマカオに逃げる。
マカオには古い友達が格闘技のジムを経営している。その友達に世話になりジムで働き始める。住む場所もその友人が用意してくれた。ボロボロのマンションの一室で、すでにある母娘が住んでおり共同生活になる。母親は病気のようで娘が幼いが面倒をみているようだ。
男は娘から浴室のバスタブの蓋だけは絶対にあけるなと約束させられた。理由はわからない。
ジムでの仕事は雑用にフィットネスのおばさんの相手。馬鹿らしくなりみんなが帰った後にサンドバックを叩く。
若い男が声を掛けてきた。俺に格闘技を教えてくれと、その男は数日前にジムに入門した若者だった。
若者は全くの素人だが数ヶ月後の格闘技の試合に出場したいと言っている、無謀すぎて入門以来誰にも相手にされていない。男は断り家に帰った。
ある夜、男が眠っていると外で酔っぱらいの中年が暴れている。男は注意するために外に出た。その中年を止めようとしているのはあの若者だった。
男はその中年を大人しくさせて、若者と家に運んでやった。
男は若者から事情を聞いた。中年は若者の父親でほんのちょっと前までは有数の資産家だった、が破産し今は酒を浴びるだけの毎日。若者は試合の賞金でもう一度父親にチャンスを与えたいのだ。
男は若者に格闘技を教えることにした。
若者に格闘技を教えることで、男の生活は少し充実した。
ある日、男は娘との約束を忘れて、浴槽の蓋を開けてしまう。それを見た母親は錯乱して男に襲いかかった。娘が母親をなんとかなだめた。
娘はやっと理由を話してくれた。以前、そこで幼い弟が溺れ死んだのだ。その時母親は酒を飲んで寝ていた。数ヶ月前に夫が女を作り出ていきそれ以来、酒浸りだった。
それが原因で精神病院に入院し親子は一時離れ離れになった。最近母親が退院し一緒に暮らせるようになった。だが危うい精神状態で母親は暮らしている。
男はそれ以来、母娘の生活を助けるようになり、だんだん母娘と距離が近くなっていく。
若者のトレーニングも順調で、若者はその才能を開花させていった。
そして試合の日が近づいてきた。試合はチャンピオンがくじで挑戦者を決める。チャンピオンは若者の名が書かれたくじを引いた。若者はチャンピオンと戦い勝った。
そして若者は新たなチャンピオンになり、連勝を続けていった。
男と母娘は本当の家族のようになり、全てがうまくいっていた。
だがマフィアが追ってきた。男と母娘がくらすアパートに。
マフィアたちはアパートの扉をぶち破り男や母娘を襲った。
男はマフィアたちを倒すが、気がつくと娘は逃げ出した階段から転げ落ち意識不明で、母親は娘を守るためにマフィアを刺して血まみれになっていた。
母親は罪に問われることはなかったが、事件のショックで再び入院させられることになり、娘と離れ離れになってしまった。
男は母親から罵られながらもそばに居続け、母娘が一緒にいられるよう努力するが、なんの役に立たなかった。娘は父親に引き取られることになった。
男が母娘にかかりっきりになっている時、若者はある挑戦者と戦っていた。セコンドにいつもいた、男はいない。
その挑戦者は強く若者は破れ、首の骨を折られ重症を負い入院した。
全てを失った男は、試合に応募した。そして一人トレーニングを開始した。
無謀だと止める旧友に、また何かを成し遂げたいんだと答え、たった一人で孤独にトレーニングを続ける。チャンピオンは男のクジを引き当てる。
男のもとに娘の父親が訪ねてくる。父親に引き取られることとなったのだが、母親と別れることができないと言っている。だが男が試合で勝てば、自分にも出来ないことがことができる気がすると言っている。
男は二人を引き裂いてしまったので、娘は絶対に自分を許さないだろうと思っていた。娘が退院しても会いに行けなかった。だが娘は自分に賭けている。
そして男は試合に挑む。

こんな感じのストーリーで泣けた。女はまるで泣いていなかったが。

2013年10月31日木曜日

休日に温泉に行った。私と女の友達2人にプラス友達の子供と旦那さんとで。
台湾の温泉は日本みたいな普通の風呂のタイプと水着で入る温泉というより温水プールというのがある。
今回はそのプールタイプだ。子供は二人4歳と1歳くらい、どちらも男ですぐに泣く。4歳の方は生まれつき体が弱いので甘やかされ気味に育てられてるらしい。
温泉は外にあるが露天風呂という感じは全くしない、屋外プールだ。
適当に風呂に浸かり過ごす。子供のテンションの上がり具合はMaxima。
幾つか大きな湯船があるのだが、その中で一つほぼ水温が水のジャグジーみたいなのがいっぱいついてるプールみたいなのがあり、そこで子供が泳ぎ始めた。
何故か知らないが私が面倒を一人で見ることになった。
この日は台風が台北をかすっていたので天気が悪く小雨がずっと降っていた。子供に付き合っていたが寒くなったので、もう良いだろうと子供を抱えて温かい風呂に入った。
子供は必死に抵抗しまだ遊びたいと絶叫していたが、私は特に気にしなかった。
絶対に一人にするなと言われていたのでしょうがない。
子供を離すと戻ってしまうので、暴れる子供をずっと抱きながら風呂に浸かるは目になる。子供はなくというより絶叫して暴れていたが、体の弱い四歳児なので力も弱く、私は適当に無視していた。
周りの客がかなり同情した目をむけてきたが気にしなかった。寒いからね。
10分くらいすると女がやってきて、そんなに泣かせてどうのこうのというが、仕方がない。寒いんだから。
子供はすっかり意気消沈してお父さんのところに行くと言って、歩いていった。
よほど今回のことがこたえたらしく、それから子供の私に対する態度は完全に一線を引かれたものとなった。

2013年10月23日水曜日

風邪に熱。会社を休む、道理で前日から死ぬほどダルかったわけだ。精神的に来てるからかと勘違いして変に落ちこだんだが、無駄だった。
それで幾分か気分は良くなったが、実際は熱でダウン。女は母親を定期検診に連れて行くと出ていった。
しばらく寝ていたが、昼過ぎには眠れなくなる。昨日の夜は九時前には寝ていたから当たり前だ。
HDDに放り込んであったツリー・オブ・ライフを観る。私が観てるのは映画なのか夢なのかよくわからないうちに、またぐっすりと眠れた。
昔PREMIEREの記事でテレスマリックについて書いてあった、何でもクソ山奥に住んでいて、携帯も何もかも無いと小屋に、一人でだ。月に一回だか数ヶ月に一回だか忘れたが、それくらい割合で山を降りてきて娘に電話をかける。オファーするのに数ヶ月かかる。
今でもそうなのかは知らないが。

2013年10月21日月曜日

9月の終わりに台北では、10日間ほど雨が降り続いた。雨が上がると、あの猛暑が雨に流されたように終わっていた。私も雨に流されたように新しい会社にいた。
会社を辞めたのはそのデタラメぶりにうんざりしたからだ。
すでに新しい会社に来て一ヶ月半くらいたった。何とか馴染み始めたところだが、最近女が日本で生活しようと言い出した。
半ば強引に同意させられた。確かに台湾に来た最大の理由は親父さんの面倒を見ることで、その親父さんが死んでしまったのだから最大の理由は消滅したことになる。
確かにそうなのだが、私自身、日本で行き詰っていたので、半ばヤケクソで台湾に来たという理由もある。
東京に帰るならほぼ確実に昔の会社に戻れるが、今回は実家のある名古屋にかえるつもりだが、名古屋でなんの仕事を探せばいいのかも分からない。人生の本格的な迷走が始まった。
そこでまたこの日記を再開することにした。意味はあるだろう。

2013年7月20日土曜日

夜、女の友達と食事。
夫婦と独身の女友達、私達二人で計五人。
話題はその独身の女友達がある友達と絶交状態になったこと。
ある友達というのは、5人とも共通の友人だ。早い話が高校時代の仲良し女四人組で、そのうち二人がいきなり喧嘩し絶交したのだ。
理由はこうだ。
LINEでチャットしていた。コーヒーショップで小さい子供にコーヒーを飲ませる母親を観たのでそれって子供に良くないよねと聞いたら、当たり前だファック野郎と返答。
それで即絶交だ。アホくさくて私は三時間死んだ顔をしていた。

2013年7月14日日曜日

朝3時、パシフィック・リムの深夜回を観終わり、帰宅。
真夜中、チンピラどもが無茶苦茶に走り回って、警察が追い掛け回している。
やれやれだ。
帰ってひたすら眠る。

2013年7月13日土曜日

0時を超えると台風直撃。風が凄まじい。窓がぶっ飛ぶと思いながら眠る。
朝、まだ雨が降っているが、タダの雨だ。
夜、パシフィック・リムを観に行く。
映画館にたどり着くまでに数十本の倒れた街路樹を見た。

2013年7月12日金曜日

台風が来る、来ると、ニュースでは行ってるが空は晴天だ。会社に行く。昼ごろからやっと曇り出す。2時に政府から会社と学校が休みになる命令がでる。
ウチの会社は社長が糞なので関係無ない。が、一時間ほど退社が早まる。
家に帰り準備。まだ風は弱い。

2013年7月11日木曜日

2日ぶりに会社。何のやる気も起きない。パシフィック・リムが台湾では今日から公開だ。
今日観に行きたいと言ったら女に拒否される。
超巨大台風が接近中。女がずっとニュースをチェック。
台湾は台風が来ると法律で会社も休みになるので、みんな台風を待っている。
来たらみんな遊びに行く。サービス業はこの法律の外だ。

2013年7月9日火曜日

起きると、枕が血まみれ。女の親知らずの流血が止まっていないのだ。
痛くて死にそうだという女に薬を飲まし、ベッドを片付けて、今日も休むことにする。
女を連れて昨日の歯医者に。歯医者に。台湾の歯医者は多い、がほとんどが藪医者だ。
だから近所に歯医者があっても意味が無い。糞暑い中、バイクを飛ばす。飛ばす。
医者は女に緊張し過ぎだと言った。そして傷口になんか突っ込んで流血を止めた。
取り敢えずは解決した。午後からはまったりと過ごす。

2013年7月8日月曜日

何となくズル休み。女にはとても疲れた。とだけ言った。
昼は寝て過ごす。女が帰ってきて女を歯医者に連れて行く。親知らずを引っこ抜くのだ。
女を連れて行く。10分もしない内に女が待合室に戻ってきた。頬が赤く腫れている。
麻酔でまともに喋れない女を連れて帰る。ひっきり無しに唾と血を吐き出してる。
家に戻り、なんとか寝かしつける。

2013年6月20日木曜日

ウチの会社の日本人バイトたちが、イビリ屋のイビリに耐え切れずヤメると騒いでいたが、どうやらみんな辞めることが決まったようだ。
しょうが無い。

2013年6月19日水曜日

女を原付の後ろに乗っけて移動中。目の前に警察官二人プチ検問中。私は少しスピードを落した。
警官は私を見て止めろとジェスチャー。
私は原付を止めてバイクから降りようとすると、警官が片手で制止しながら何か言っている。台湾語だ。台湾語はわからない。警官のもう一方の手は腰のホルスターの少し上に。
女が(やっと)原付から降り、こいつは外国人なので台湾語はわからないと警官に言った。
警官は少し和らいだ感じで中国語で私に身分証明書番号を教えろといった。私がポケットに手を突っ込んで身分証明書を出そうとすると、また緊張した様子で出さなくてイイ出さなくてイイと言う―こっちの連中は身分証明書の番号を暗記している―私は手を止めざる得なかった。
女がすかさずバイクは私の番号で登録してあるからと、警官とやり取りを始めた。
もう一人の警官は何も言わず突っ立っていた。が、彼の右肩に掛かったM16はこう言っていた。
「この角度でトリガーが引かれると5.56mm弾がお前の膝から下をズタズタにするだろうね。」
もう一人が興味が失ったらしく、私にもう行けと言った。もっとスピードを出して走れと付け加えた。

2013年6月18日火曜日

女と映画を観に行く3DIMAX―マン・オブ・スティール。台湾に住んでて良かったと思える数少ない点は、ハリウッド、香港映画の公開が早いこと。
マン・オブ・スティール―最高の時間だった、私にとっては―映画が終わり女が言った、ゲロを吐いたと。

2013年6月17日月曜日

女にお前の料理には味がない。と喧嘩になって一日たった。
仕事中に女からメール―残業で遅くなるから外で食べるでしょう?帰ってきたらスープだけでものむ?
私は少し感動して、昨日は酷いこと言ったもんだと反省し、飲むとメールで返信した。
帰ったら女はすき焼きを作って待っていた。
兄貴と一緒にCOSTCOに行ってこういう結果になったらしい。

2013年6月16日日曜日

女が私が知らない所で買い食いばかりしてるから、痩せないと私を怒る。
私はお前がまともな味がついた飯と白米を出せば、外で食べないと言い返し、喧嘩。
私も本当のこととは言え随分と酷いことを言ったもんだ。女も怒っていたが、そのうちに仲直りした。
よく自然に仲直りできたと思う。

2013年6月15日土曜日

昔のルームメイトから連絡。結婚してから忙しくて会ってなかったので、私は彼の家に。
ずっとビールを飲みながらダベる。
しばらくすると手紙を訳してくれというので訳してやった。内容はラブレターだ。
そういえば、彼の嫁は日本人なのだが、親への挨拶も私が日本語に訳した記憶が有る。
今度は浮気相手なのだから、結婚から離婚まで私におまかせだ。

2013年6月14日金曜日

ポセイドンになって海獣と戦う夢を観て、飛び起きた。
私は海では足のつかない所には行かない主義なのだ。

2013年6月13日木曜日

女がグレイが台湾に来る!と大騒ぎ。大ファンらしい、昔からの。
やっとグレイのライブを生で見れると私に行こうと言う、私はグレイの歌など聞きたくないから金の無駄だ、1人で行けと言った。
女は相当残念そうで一緒にいきたいと言うが、チケットもタダじゃないのでもったいない。

2013年6月12日水曜日

今日は端午の節句。休みだ。
女が机を祭壇にして、料理と御札を供え、線香を立てて祈る。
御札は後で焼く、何百枚もあるので焼きがいがある。



2013年6月11日火曜日

女とDVD屋。火垂るの墓を観たことないと言ったら女に日本人かとなじられる。
だが確実に私は日本人なのだ。

2013年6月10日月曜日

となりの同僚のS。一日中Facebookをみてる。
あれを一日中やれるくらい活用したい。

2013年6月9日日曜日

今日は夜、女の親友とその家族と食事をする予定。親友の1人はつい最近私と女が結婚したのを知った。
何で親友に伝えてないかというと、結婚直後に親父さんが急死したりと理由は色々あるらしいが、失礼な話だ。
近所の居酒屋みたいな店で飯。
親友には1人子供がおり、四歳の男の子だ。明らかに私を警戒しており近づこうともしない。
子どもと遊ぶのは好きだが、無理強いするのは面倒なので大体放っておくのだが、今日はそうも行かず子供に歩み寄る。が、なんかあまり懐かない。
飯も終わり、近所夜市へみんなで行く。夜市につきものBB銃で風船をブチ割るって屋台で、撃つの手伝ってやってから態度が変わり、私にへばりついてきた。
さらに私の家にはゲームがいっぱいあると知ると、私の家に来たいとずっと私に頼みこむ。
時間が遅いので連れて帰られたが、家についてもずっと私の家に行きたかったと文句を垂れていたらしい。
とは言え私の家のゲームは戦争か、犯罪か、気持ちの悪いバケモノを殺すゲームだけで子供にはヤラせられないのだが。

2013年6月7日金曜日

また休日出勤。女は結婚祝のお菓子を配って回る。同僚を呼び出して、親戚や知り合いに菓子を配り続ける。
本当は私が運転してやるべきなだろうが、私はノータッチ。

2013年6月6日木曜日

何となくKKボックスをヤッてみる。クソみたいな曲しか無い。

2013年6月5日水曜日

ツレで日本人と台湾人の交流イベントを主催してる奴がいる。
こういうイベントしてる人は既にいた。作ったキッカケはこうだ。
日本人が主催してるイベントに参加したらしい、飲み会みたいな内容なんだが、ゲーム大会とかもある、だがルール説明が全部日本語だったので、主催者に聞いてみたらしい、何故台湾人の参加者の方が多いのに日本語なのかと。
答えは日本語がわかる台湾人が多いから。
ツレはむかついたらしい。理由はこうだ。そこに参加してるような台湾人は日本人みたいだねと言わると喜ぶ、じゃフィリピン人みたいだねと言われたらお前らはどうなんだと?そんなこと言われて喜んで意味があるのかと。プライドはないのかと。
それで本当の台湾と日本の交流ができるイベントをやってやろうと思った。
だが結局、上手く行かなかった。

2013年6月4日火曜日

どこかのまとめサイトで、台湾が日本みたいだというのを見た。というより定期的に見る。
合計で3年くらいこっちに住んでいるが、台湾が日本みたいだ、と思ったことはな一度もない。
アメリカ人が日本にはスターバックスもマクドナルドもある、アメリカとおんなじだ!と言ってるようなもんだ、だがそんなアメリカ人は見たこと無い。
こっちに旅行に来た日本人が吉野家の写真をとって、そんなスレを立てる。
こういうヤツは将来、日台の関係に良い影響もたらさないだろう。

2013年6月3日月曜日

2013年6月2日日曜日

休日、女が一緒に昼寝をしたいというので付き合ったら一日が終わっていた。

2013年6月1日土曜日

休日出勤。女は同僚に運転を教えてもらったらしい。
こっちは路上教習がないので、初心者の運転は本当に怖い。
女は同僚を乗せて、片道1時間ほどの観光地に行って帰ってきたらしい。
途中、一度死にかけたらしい。

2013年5月31日金曜日

家に帰り夜、映画を観てるとどこかで爆竹が鳴り響く。響く。
折角のシーンがだいなしだ。下の階の野郎はカラオケを始めた。
私が昔ゲームをしてた時は警察を呼んだくせに。クソッタレども。

2013年5月30日木曜日

こっちの連中は卒業すると写真屋にいって、アカデミックドレスを着て写真を撮る。
大抵履歴書にその写真をつかう。
最近は写真屋でフォトショップの加工もサービスで行う。ちょっと口をいじったり、目を整えたり、履歴書の写真と全然違うのがくるのもよくある話。もう今は何が来ても驚かない。

2013年5月29日水曜日

またどうでもいい野郎の面接。兵役は免除、理由を尋ねると兵役検査の時、太っていたから。
兵役検査が終わりダイエットして50キロほど痩せたらしい。
履歴書の自己PRには根性があると書いてある。ダイエットが成功したのもその根拠の一つらしい。

2013年5月28日火曜日

会社帰りに我慢できなくなって、Bluetoothスピーカー買う。
最近立てた計画はこうだ、屋上のベランダで子供用のプールを置いて、そこに浸かりながら、ビール片手にBluetoothスピーカーで音楽なりオーディオブックを聞きながら、台湾の糞暑い不愉快な午後を快適な午後に変えてやる。

2013年5月27日月曜日

女が夜コンビニでそこら中に送金している。
結婚祝いのクッキーを買い漁っているのだ。
何か結婚したら配る習慣らしい。新郎が。

2013年5月26日日曜日

女が何処かに遊びに行きたいとずっと騒ぐ。私はどこにも行きたくないと突っぱねる。
結局3時くらいにバンチャオのスパに行くことになる。
糞暑い午後、原付を走らせる。
道に迷いながらそのスパにつく。見た感じは市民プールみたいだ。室内のようだが。
私たちは中に入る。凄まじい混雑。
薄汚い更衣室で着替え終わった時に私のテンションド最低、女は無邪気に滑り台があると騒いでいる。
私は一体全体これのどこがスパだと女に言った。女は奥の方に有るはずと私の手を引いいて奥へ。
そこにはお湯が出てるプールがあった。私は女にこんな薄汚い所に入れるか、帰ると告げた。
女がなにか言えば、私も少しくらい入ってもいいかと思っていたが、よっぽど私の顔が怒りに満ちていたのか、女は何も言わずに私の後ろについてきた。
二人合わせて500元以上払ったが、何もせずにプールを出た。
女は私の子供じみた態度に相当むかついて、しばらく一言も口を聞かなかった。
数時間後、もったいないと文句を言ったが、私はあんな所に連れて行く方が悪いと、また喧嘩になったが、夜にはなんとなく仲直りした。

2013年5月25日土曜日

最近、台北ではどこいっても五木ひろしのポスターが貼ってある。ある。
コンサートをやるらしい。案外、演歌歌手も人気がある。

2013年5月24日金曜日

久しぶりに日本のツレと夜、FPSで遊ぶ。
こっちに来てからめっきり知り合いが減った気がする。まぁどうでもいいが。

2013年5月23日木曜日

同僚のGさん。愛国心が強いらしい。よく「何かあれば俺みたいな年寄りが自衛隊に入って死んでやるのに」この2ヶ月かそこらで何回も聞いた。
どこかの芸能人もよく言っていたが、戦争に誰かが行って死ねば、それで何かが終わると思ってるらしい。神に生贄捧げてどうにかするってわけじゃない、根本的勘違いしている。
お望み通りその何かが起こった時に、戦場の真ん中に放り込んで貰って、死んだとしても何一つ情勢に影響を与えないだろう。
ただ死ねばいいのなら、何のために毎日、オレ達がそれなりにでもキツイ訓練をしてたかわかりゃしない。

2013年5月22日水曜日

私が紹介したガキが面接に行ってないと会社から電話。これで二度目だ。
電話すると体調が悪かったから。
下らないガキに振り回されるのが仕事だ。

2013年5月21日火曜日

残業―腹がへる。減る。
会社の近くの路地の屋台で麺を啜りながら、顔を覚えられた店長のオバサンに声をかけられると、一応台湾のリーマンになって気がした。

2013年5月20日月曜日

布。この家の各部屋の入り口には暖簾のような布が垂れ下がってる。
邪魔臭い。
冬はまだいいのだがこの時期にはただ単に風をシャットアウトしてるので、暑くしょうが無い。
とにかく私の部屋だけはこのダサい布はとれと女に承諾させたのだが、お母さんが来る時だけは文句を言われると、勝手にまた布をつける。
理由は風水的な理由だ。
今日も帰ると私の部屋の扉に布が垂れ下がってる。私は布を無造作に地面に引きずり落とし、中の棒を取り出して近くの棚に何度かフルスイングで叩きつけた。
たかだか布を扉に付けたくらいで人生がどうにかなるほど、甘くはない。

2013年5月19日日曜日

兄貴が来て屋上の家庭菜園をなんとかするというので、付き合って手伝って汗だく。
もう暑くてしょうが無い。全部枯れればいいのに。

2013年5月18日土曜日

休日出勤。
超高学歴で日本語も英語もべらべらで、背も高く顔も良い女の面接をする。
一口に言うと知性を兼ね備えた菊川怜と言った感じ、で喋った感じも良い。
まぁこんな人は私としょうがなく喋ってんだろうからと、思うと面接はさっさと切り上げ、帰ってもらった。

2013年5月17日金曜日

最寄りの駅まではだいたい毎日女に送り迎えしてもらっている。
金曜の夜は大抵、外で飯を喰って帰る。帰る。
大体は安っすい鍋料理を喰い、近くのDVD屋でDVDを借りて帰る。
殺人の追憶と目があったので借りた。観終わったあと女がずっと犯人は誰なんだと私に聞くので、そんなことはどうだっていいんだとキレて寝た。

2013年5月16日木曜日

毎日誰かを面接してる。男が来たら必ず聞くのが兵役を済ましたかどうか。兵役前の男を雇う会社はない。
大抵のヤツは済ましたか、免除か。免除のヤツは理由を必ず尋ねる。大抵は―まぁ色々だ。
今日も私はまた尋ねる何故兵役を免除されたのかと。
心臓病だと答え、直ぐに今はもう何の問題もなく、健康で野球もやりますと笑顔で答える。

2013年5月15日水曜日

駅の便所でオバサンの怒号。ふと見ると孫に怒ってる。
外省人みたいな真似するなとか、何とか。何したかはわからんが。

2013年5月14日火曜日

同僚の若い台湾人の女―S。見かけは若く可愛くケツが軽そう。
だからか、スターバックスで順番待ちをしてる時にケツを触られたと騒いでいる。
触ったのは若い四人組の日本人だ。旅の恥はかき捨て。

2013年5月13日月曜日

台湾での鉄道。
台北駅のある改札の近くに靴修繕部と看板が掲げられた小部屋があり、そこの扉はいつもあけっぱなしだ。
中はちょっと大きめのトイレの個室程度で奥の金属製の棚に革靴が無造作につめ込まれて、手前に靴を直す道具と禿げたおっさんが一人。
日本の駅ナカの靴修理店ではない。一般人が入れない柵のなかにあるので、駅員の靴を直す部署なんだろう。
禿げたおっさんは、たまにじっと改札を行き交う人を見ている。
あぁ、ああいう人生にもたまに憧れる。

2013年5月12日日曜日

台湾のレシートは宝くじになっている。だからよくレシートを寄付するボックスがそこら中に設置されている。
私はイチイチ番号をどうのこうのするのが面倒なので、よくそのボックスに放り込む。
駅のコンビニで何か買い、近くのボックスに放り込もと私はボックスに近づいた。ボックスの前には先客のオッサン。
レシートを入れるだけなので普通は直ぐにどくのだが、オッサンは全然どかない。
よこから覗きこんでみると割り箸でボックスのなかからレシートをつまんでいる。
完全な泥棒なんだが、誰も気にもとめない。

2013年5月11日土曜日

休日出勤。女はお母さんと買物に行ってるはずだ。これは兄夫婦の母の日作戦の一部だ。
兄貴は今年は嫁の母の為に、母の日に飯でも喰いに行くらしい。
ここで障害になるのが自らの母である。
無論、お母さんにも母の日のプレゼントはある、先週旅行につれていっている。が、嫉妬深いので何で私は母の日当日じゃないんだ、となるのが面倒なので、この二日間女と私が囮となるのだ。
なのでお母さんが今日は私たちの家に泊まる予定、めんどくせー。
家に帰るとお母さんと女はもう帰ってきていて、ダイソーに行ってきたと、楽しそう。
母の日、当日。温泉に連れて行く計画。
お母さんは私に悪いのでと、何度も断るが、女がだいぶ強引に決断させる。連れて行かないとあとから陰で何をいわれるかわかったもんじゃないので、あぁ本当に面倒くさい。
私たちは北投温泉へ。私が何度が言ったことがある場所へ。ここは水着着用のルールもなくサウナもあって大分日本に近い。
二時間ほど中でKindleを読みながらじっくり休んでいると、服を着た奴が入ってきた。そいつがこちらを何気なく向いた。裸だった。
あぁ服じゃなくて刺青だったのか。
こっちは日本より確実に刺青への敷居は低い、が、気合の入ったのはたいていヤクザ―黒道だ。
黒道はここでお茶を飲むらしく、休憩スペースに急須とか色々準備していた。
あぁやっぱり台湾人はお茶が好きだ。

2013年5月10日金曜日

今日から来ると言ってた新人が来ていない。まぁよくある話だ。

2013年5月8日水曜日

最近馬鹿みたいに求人が舞い込んでいる。
日本のクソみたいなベンチャー企業が台湾に進出すると息巻いて、高学歴の人材を漁っている。
誰にも相手にされてないが。

2013年5月7日火曜日

同僚のMが日本から来た友達と飯喰いに行くのでどっかいいとこないかと、来た。
女にチャットで聞いてみる。色々調べて送ってくるうちに女がMは全く喋れないのに大丈夫なの?
と心配し始めた。私は大丈夫だろうと答えたが、女はしょうがないから私が一緒に行ってあげようといいだした。
Mに聞いてみると良いというので一緒に飯を喰いに行く。
店は”熱炒”と言われる種類の店。日本で言うところの居酒屋みたいな店。炒飯から刺身まで大抵の料理は揃っている。クソうるさくて椅子とテーブルが低く、汚い。
久しぶりに味のある飯を喰った。

2013年5月6日月曜日

いつも電車にのり会社に通う。
台湾の交通機関は大きく3つ、電車 バス MRTだ。
MRTってのはよくガイドブックだと地下鉄と紹介されてるが、まぁ地下鉄だ。電車よりだいぶ新しい。
綺麗で本数も多く時間も正確で台北市内にいる限りこれにのればどこでもいける。
電車は昔からある、所謂電車だ。こっちは昔より大分ましになったが時間もよく遅れるし、古い車両も多く汚い。
私は電車で通っている。
あるタイプの車両は、ドアをあけるスイッチがなぜか客車についているので、車掌が電車に乗っている。満員電車でもだ。スイッチは右側と左側がわかれているので、満員電車の中を押し分けて車掌はドアを開け、降りて安全確認してまた人を押し込んで電車に乗り込む。
それで朝はだいたい遅れてないので、すごいと思う。

2013年5月5日日曜日

女が温泉に行こう!
ネットで半額のチケットを落としたらしい。
私は女を原付の後ろに乗せて出発。45分くらいで目的地につく。
田舎の水着をつけてはいるタイプのやつだ。どちらかと言うと雰囲気はプールに近い。
それでも風呂なので少しはくつろげた。

2013年5月4日土曜日

休日出勤の朝、だるーく起きだすと上の階から女の声。
「洪水だ-!!」と叫んでいる。
昨日の夜から豪雨が降り続いてる。洪水はきっとオーバーだろうから、雨漏りでしたかと階段をあがるとベランダでサンダルが見ずに浮かんでいた。
ベランダの一箇所しか無い排水口が葉っぱで詰まっていた。

2013年5月3日金曜日

面接。こっちには兵役があるので履歴書にも兵役が終わったかどうかを書く欄がある。
その欄には免除。私は目の前の男に理由を尋ねると男は太り過ぎでと答えた。
今の彼の体重はどうみても太っていない。彼は50キロほどダイエットしましたと言った。
私がどうやってと聞くと、もともとジョギングとバスケットボールが好きだったのでという。
もともとバスケットボールとジョギングが趣味のやつが100キロ以上も太るのは不自然な話だ。
まぁ兵役、嫌なやつはなんでもやるので、その類なんだろう。

2013年5月2日木曜日

朝、女がつかれたので午後休をとるという。私はそうしろと言って仕事へ。
帰ってくると女は午後ずっと掃除していてつかれたという。

2013年5月1日水曜日

夜早めに帰ってくるが、下らんことで女と大喧嘩になり、体力気力共に激しく消耗する。最悪。

2013年4月30日火曜日

そういえばいつの間にか親父さんが死んでから100日たったらしい。女が肉を喰っている。
私はいつも食っていたが。
たった100日で私の中から親父さんの記憶は大分薄れつつある。

2013年4月29日月曜日

家に帰ると女がバイクを売りに行くという。
死んだ親父さんのバイクがあまったんで処理するのだ。あとなぜか車庫に放り込んである新車も検査のために上がっちまったバッテリーをなんとかするとかで、相当めんどくさい。
付き合わされて帰ってきたのはだいぶ遅い、疲れた。

2013年4月28日日曜日

日曜だが特にどこかに行こうという気にならない。女は温泉にでも行こうと言うが、この雨では外に出る気にもならない。

2013年4月27日土曜日

お母さんがくる。家庭菜園の様子を見にだ。
仕事がなかった頃は私がやっていたが、働き始めてからは全く来にしたこともなかった。
ちょっと風邪っぽかったが家庭菜園の整理を手伝う。手伝う。
全部捨てちまえばいいのに。

2013年4月26日金曜日

家に帰ると、女が明日お母さんが来るからと必死で掃除。わりとどうでもいい。

2013年4月25日木曜日

夜女と映画を見る。女が借りてきたのは、天国からのエール。
結構ダルかったので最後の方は寝ていた。女がちゃんと見ろと私を何回か起こしたが、私は観てるよ!と逆ギレして眠った。
起きたら映画は終わって女は泣いていた。主人子が胃がんで死ぬので親父さんの事を思い出したらしい。

2013年4月24日水曜日

昨日、私の弾になったフォトショップ女は職歴が優秀なので使える。
顔は不細工でもないのだから普通に写真をとればいいのに。あとはあのでかい胸を出しておけば、誰も気にしない。

2013年4月23日火曜日

この仕事で唯一価値がある事は、色々な女の子と次々に会えること。
今日は履歴書の写真を見ると期待大だ。
時間になりその本人らしき奴が入ってくる。顔が違う。
後で台湾人にそのことを話すと、台灣の写真屋は署名写真のフォトショップの加工サービスもしてると教えてくれた。
私はその女の履歴書の写真を私が撮った写真に差し替えた。これでは面接になっても、落胆が大きすぎて必ず落ちる。

2013年4月22日月曜日

履歴書をメールでばら撒くだけの仕事。
この国での私の価値はただ日本人であることだけ。それだけで仕事をして飯を喰う。
そんな日本人はこの国には大勢ることを知った。
クソッタレとだけ思う。

2013年4月21日日曜日

休み。女とDVDを借りに行く。
女はどうでもいいアニメを借りたがる。平成イヌ物語バウの全話入のVCDを借りると言い出す。
日本ではまったく根付かなかったVCDだが、台灣では根付いた。さすがに新作がVCDで出ることはないが未だにこういった場所にはある。
やすいかと思ったが、200元くらいした。高い。

2013年4月20日土曜日

休日出勤。二人ばかり面接する。
地味そうな女に、日本オタクのネェチャン。よくある手合い。
ドラマ、アニメがきっかけで日本語を勉強しはじめて、留学して日本の企業の就職口をさがしている。適当に話を合わせる。

2013年4月19日金曜日

二日前に就職を渋ってるガキに揺さぶりをかけたが、もう一発かける。
合格した会社は明日また四人面接する、気が変わっても責任が持てない。面接があるのは事実。
直ぐに採用を受けるというメールが返ってくる。ガキめ。

2013年4月18日木曜日

そこら中に大量の履歴書をばら撒く。ばら撒く。
一日が終わる。返答なし。つまらねぇ国でつまらねぇ仕事をしている。

2013年4月17日水曜日

私の仕事は人材派遣会社。
企業に弾をブチ込む。ブチ込む―只管ブチ込む。合格通知かもう要らないと言われるまで。
期待してかなった弾が大命中!GOTCHA!!
だが弾がゴネる。あと2社受けるだの、給料がどうのこうの。確かに給料は最初の応募条件よりは安い。が、相場だ。悪くはない。
善人を装って、アドバイスのような揺さぶりを掛ける。
そうであってはならないが、そうであると思わせなければいけない。と、4マキャベリは君主論で君主に説いたが、君主とは何の関係もない人材派遣会社の社員の私にもこの言葉は重要だ。
そうであってはならないが、そうであると思わせなければいけない。

2013年4月16日火曜日

今の職場で唯一働く価値が有ると思えるのは、一人だけかわいい女の子がいること。台湾人だ。
他愛のない話をする―昔のアダ名はシュークリームだった。由来は髪型。彼氏のアダ名はいちご。
昔、スナックのオネーチャンにキスマークだらけにされたのをみた同僚がそう読んだから。
台湾人は食べ物の名前を渾名にするのが好きらしい。

2013年4月15日月曜日

仕事が終わって家に帰り、服を洗濯機に放り込む。
お母さんが出て行ってこの家のルールも少し変わった。昔、洗濯機に女物の下着と靴下を入れるのは禁止。
理由は汚いから。汚いから洗うんだろうがと思うが、とにかく禁止。靴下は洗濯板で洗っていた。
台湾では未だによく洗濯板をみる。
私は靴下を洗濯板で洗う時間を人生で一番無駄な時間とよんでいた。

2013年4月14日日曜日

最近、気温が高い日は蚊が多い。台湾なんか蚊だらけなのだが、この家には蚊取り線香のたぐいはない。体に悪いから。下らん。
前は寝る前に蚊を全部見つけ出して掃除機で吸っていたらしい。アホくさくて付き合いきれん。
私は電気式の無臭の蚊取り線香を買ってきた。こっちの有名な蚊取り線香のマークはワニだ。

2013年4月13日土曜日

土曜日だが休日出勤。クソッタレ。ささっと終わらせて帰る。女が台北まで迎えに来て、女の昔の職場の人間と飯を喰うとかなったが、結局流れる。つまらん。
家で糞不味いピザを喰う。肉が入ってないからだ。100日も肉禁止とは面倒な習慣だ。死んだ人間なんかほっときゃいいのに。

2013年4月12日金曜日

仕事は残業。また雨、女が駅まで迎えに来る。帰りにレンタルビデオ店に。
レンタルDVD店へ。取り敢えず日本の映画を借りる。何となくGANTZを借りたが死ぬほどつまらなかった。ついでに2も借りなくてよかった。女はずっと訳がわかならないと言っていた。私もそうだと答えた。

2013年4月11日木曜日

晩飯。葬式が終わっても食卓に並ぶのは素食と呼ばれる精進料理、だ。死んでから100日は精進料理をたべるらしい、ご苦労なこった。が、それに付き合わされる私もご苦労なこった。
こっちは日本よりちゃんとした仏教徒が多いので精進料理用の店や専用の食材を売る店も多い。
なんかいろいろなモノを組み合わせて、肉っぽい見かけ味の物体が皿にのっかっている。確か店では神戸牛として売られていた。

2013年4月10日水曜日

今日は親父さんの葬式。服は昨日買った黒い長袖のポロシャツにしたは黒いカーゴパンツ。どうせ上から何か着させられるらしいのでなんでもいいらしい。
葬儀場につく。どうやら一番乗り。しばらくするとワラワラ親戚たちが集まってきた。親戚以外は呼んでないらしい。
日本と違い喪服を着る習慣がない。みんな完全な普段着、ぱっと見は葬式の参列者とは誰も思わないだろう。日本人は。
しばらくすると少林寺の坊さんみたいなのも来て、私達も孔子が着てるような服を着せられて準備完了。完了。
だが、服を着てるのは兄貴夫婦と女と私だけ、お母さんは着てない。あとから聞いたのだが年齢がほぼ同じなので、そういう人間は縁起が悪いから葬式のメインには立たないそうだ。なのでこの会場で一番故人と付き合いが薄い私がメインに立つという有様だ。
葬式会場は、中央に祭壇があり―これは日本と同じだ写真に花、違うのは棺桶が祭壇の裏側に置かれていることだ。参列者は父方の親戚、母方親戚が両側に別れて座る―教会の結婚式みたいに。所謂バージンロードにあたるところに私たちは黒い孔子は並んで立たされた。
少林寺の坊さんがお経を始めると、私たちは葬儀会社のおっさんの指示でタイミングよく土下座。
それが終わると祭壇の横に客に正対してたち、また土下座。それが終わるとまたバージンロードに戻り、土下座したり跪いて祈ったり。結構長い時間なので膝が痛い。葬儀会社は膝パットを配るべきだ。お母さんの時は膝パットを買っておこう。
そんな事を考えていると、兄貴が原稿を読みながらむせび泣いている。参列者はみんな釣られて泣いている。葬儀会社のおっさんたちはティッシュを配り始めた。サービスは悪くない。私も泣いてないがもらったので、涙をふく動作をして場を盛り上げる。
次に祭壇の裏側に連れて行かれ、死体と最後の別れ、やったぜ!親父さんは口がまた半開きになっており、なんか堺正章に似ていた。
それが終わると棺に釘をぶち込んで、出棺。
霊柩車はリムジンだった。私たち黒い孔子もリムジンに乗り込む。生まれて初めてだ。
火葬場につくと、直ぐに棺桶は焼却炉に放り込まれた。
そこで黒い孔子もお役御免。90分間またされる。
時間になると部屋に呼ばれる。骨は既に鉄の皿に移されており、ここからは日本と同じように親族が骨を骨壷に移す。
私たちは骨壷を持って、供養堂へ移動。糞豪華なコインロッカーに骨壷を納めてやっと終わりだ。
日本だと何か酒飲んだり何か楽しみがあるんだが、ひたすら泣いているだけ、つまらない。
特に私は死んでから一ヶ月も経っているので、今更泣けと言われても困る。

2013年4月9日火曜日

女が葬式用の服を買いに行くから、駅についたら電話しろと仕事中にメール。
駅につき電話すると、女は駅近くのベトナム人がやってる―簡易エステとでも言えばいいのかそういう店で足の爪を切って待っていた。
ここいらにはそんな店が20件くらいある。たいてい飲食店やらの店先を借りて路地の端っこで椅子をおいてやっている。だが馬鹿にしたもんじゃなく、腕がいい連中は月に安月給のサラリーマンの2~3倍を稼いでいる。
女は私を見るともう服は買ったといって、袋の中から黒の長袖のポロシャツをだした。黒ければなんでもいいらしい。

2013年4月8日月曜日

結構残業して帰宅。葬式が近いからか、女がひっきりなしに電話でお母さんと兄貴と話してる。
ピリピリして面倒くさい。

2013年4月7日日曜日

今日は特に予定が無いので、女とレンタルDVDを観て過ごす。
こっちは未だに個人経営の店がある。日本と違い会員にならなくても借りられる。その場合は保証金を置いていく、独特だ。
女と台湾の映画を観る。
台湾映画―長らく死んでいた産業だった。つまらないと誰も見向きもせずほとんどつくられていなかった。が、ココ10年くらいだいぶ頑張り、最近はつまらないイメージも払拭され、そこそこの数が作られるようになった。
最近のヒット作二本を観たが悪くない。

2013年4月6日土曜日

女と一緒に兄貴の家に。来週やっと葬式なのでわざわざお経を唱えに行くのは終いのはずだ。まぁ終いじゃなくても終いにさせてもらう。これ以上死んだ人間に時間を割くのは勿体無い。
ちょうど飯時に行き、うどんを茹でてみんなに食わしてやる。普段、兄貴夫婦は極端に味の薄い食い物を食わされているので、評判は良かった。

2013年4月5日金曜日

明日、また兄貴の家に行くのだが、女が何か料理を作って持って行けというので、その準備の買い物に行く。兄貴が冷えた麺が食いたいというので、ぶっかけうどんでも作ってやろうという事になった。
冷凍うどんとつゆを買う。問題は何をのっけるかだが、喪中なので肉類、魚、刺激の強い野菜―ねぎやニラなどもだめ。そこで大根おろしときゅうりをいれることにした。
もっと厳格に言えば、つゆも鰹節のダシがはいってるだろうからダメなのだが、面倒くさいので黙っておくことにした。

2013年4月4日木曜日

今日から台湾は四連休だ。今日は墓掃除の日で、金曜日は本来平日なのだが休みと休みに平日が挟まると、サービス業でないかぎり休みにしなければならないという法律がある。
が、私は仕事があると女に言い外に出た。休日を一人で過ごすためだ。
駅前のモスバーガーに篭りひたすらネットの用事を片付ける。午後三時くらいに家に戻る。

2013年4月3日水曜日

今日の仕事は弾との面接。人を面接するのは初めてだ。
一発目はGがヤッてくれるのでそれを隣で聞く事になる。だが、結構どうでもいいことを言って時間が長い。弾のねーちゃんも少し引いている。私は弾との関係に傷を付けないでくれと冷や汗だ。なんせ私には弾がないのだ。そういえば上司も私にGの面接は長いがそんなに長くやる必要はないと言っていた。じゃそんなヤツに指導させんなよと毒づきたいがしょうが無い。
面接の終わりに、こんな仕事を紹介しますよと、軽く見せるのだがGは持ってきたのが少ないとかなんとか文句を言い、何でアレを持ってきてないんだと私に言った。そのアレというのは面接前に私がGに見せた仕事でGがこんなのは条件に全然あってないと跳ねつけたものだ。
私は完全にGに見切りをつけた。それが今日の最大の収穫だ。
家に帰ると女が履歴書を兄貴におくれとやぶから棒。
私がなぜかと聞くと兄貴が自分が勤めてる会社に履歴書を出してくれるからという。
私は仕事の内容はと聞くと、携帯電話の関係なので私の前職に関係有るようだと女は答えた。
私は仕事の内容もわからないのは履歴書を出すとか出さない以前の問題と答えた。
私は個人に関する重要なことを勝手に決める事にハッキリと不快だと告げた。
今、兄貴夫婦は同じ会社で働いている。私もそこで働くなど本当にゾッとする。どれだけいい仕事でも勘弁だ。私はこの要求を何としてでもはねつけることを決心した。

2013年4月2日火曜日

仕事二日目。数人の弾から返答。弾とは一度会わなければならないので、何人かを呼び出す。まぁそれなりに順調なんだろう。
たまに上司やら何やらの指示があるようだが基本的には、各パートで勝手気ままに仕事は進めていいようだ。ところどころ報告さえしとけば問題ないようだ。まぁ私の性格に向いているといえば向いている。
だが、すごい無駄な工程が多い。二日目でもよく分かるほどに。まぁ日本ではありえないようなことをやってるが、気にしいたらやっていけなさそうなので、気にしない事にした。

2013年4月1日月曜日

日系企業に日本人や日本語を喋れる人間を紹介する会社。台湾にはこんな会社が数社ある。
そのうちの一つで働く事になった。
今日は仕事初日。早めに家を出て大分早く会社につく。隣の店でコーヒーを飲みながらちょうどいい時間まで待つ。
少し早かったせいかほとんど誰もいない。しばらくするとバラバラと出社する人間が出始め、だる~い朝礼が始まる。ひと目ですでにそれが形骸化しているのが分かる。
それが終わると上司が私の隣の席の人に仕事をしえてもらってと一言。そいつはまだ来てない、どうやら遅い出社が認められているみたいだ。
それが来た。ジイさんなのでGと呼ぶことにする。Gは簡単に仕事の流れを話すと前置きし、長々と仕事の流れを説明してくれた。Gは相当面倒くさいのがわかった。必要最小限の事を教わったら仕事のメンでは関わらないようにしよう。
Gから仕事の流れの説明をうけて直ぐに実際に仕事開始。会社に登録されている弾となる人間に片っ端から電話を掛けまくり自分の銃に装填するのが最初の仕事だ。
それが終わると、弾を撃ち込む場所を選んでブチ込む。流れは至極簡単だ。
Gは私が一切メモしないのでそれとなく自分が仕事覚えた時はこんなふうにメモっていたとノートを見せてきた。私は不必要な事はメモらないので感心したフリはしといたが、無視した。
とは言え私には肝心の弾がないので今日は殆どすることがない。暇ので弾の履歴書の自己PRを見て時間を潰す。こっちの人間はやはり日本より自己主張がついからか自己PRも気合が入っていて面白い。ちなみに自己PRはこっちでは自伝といい内容は自伝だ。
中には留学の苦労話などが書いてあり、ひとつの物語となっているので素直に感動してしまうものも数多くあった。
そんな事をしているうちに就業時間。
女が駅まで向かいに来た。昨日の夜から私が仕事に出るとずっと寂しいと言ってたのでそれでだろう。新婚だからではなく親父さんが死んだ影響だ。家にずっと一人でいるのがきょくどに寂しいらしい。夜も親父さんが死んでからずっと電気をつけて眠っている。私は大抵の状況で眠れるのでどっちでもいいが。
私は女に仕事は我慢出来る範囲だと言った。

2013年3月31日日曜日

台湾は春になり、毎日雨だ。今日も朝から雨。私たちは電車で兄貴夫婦の家に行った。お経を唱えて飯を喰って帰る。帰りは兄貴が送ってくれた。兄貴はウチのテレビが見えなくなったので見てやるとごちゃごちゃやっていたが、どうにもならなくて帰っていった。
それから10分もしないうちに、女と二人で飯を作っていたら玄関のチャイムが鳴る。女が出たが戻ってこない。
私が階段を少し降りて除くと、兄貴の足がちょうど見えた。何か話し合ってる。私は気にせずに料理を続けたが、時間が長い、やけに時間が長い。その上小声だ。
私はピンときた。クソッタレここの住人がタレこみやがったのだ。
私はゲームを爆音でやりすぎて二度警察に通報されている。そこ事をチクりやがったのだ。薄汚ねぇ密告屋どもめ!
しばらくすると兄貴は何でもない何でもないと帰って行き、女がキッチンに上がってきた。私はブチ切れられるかと思ったが、女は困った顔で私にどうしよう!!と言った。
女は兄貴が向かいだか二階だかの住人から、私と女が毎日のように喧嘩していて、私が女に暴力を振るっていると教えられたという。
確かに二度とも警官は中で激しい喧嘩が行われていると駆けつけてきて、私が一人でゲームをしているのを確認して帰っていった。
だが、取り敢えず警察の話は漏れていないようだ。私は少し安心し、これからはあまり大声を出さにようにすると女をなだめた。まぁ実際喧嘩の時にはそれほどの大声を出してないわけだが。
しばらくすると電話。女が出る。女が警察!!そんなの来た事ない!と言ってる。
クソッタレ、帰り際にまた余計なことを言いやがった。警官も通報者にゲームだったと報告すればいいのに。
私は頭の中で、警官が来た事が重要でないので言うのを忘れていたよ、それにあの日はウンタラカンタラでね、すっかりウンタラカンタラでわすれちたのさ、と言う感じで答えるのを何度かシュミレーション。
女が電話をきり、兄貴との電話の内容を話すが、警察の話は出てこない。女はまさかここに二度も合計三名の警察官が来たとは思ってもいないのだ。
私はさっきの警察の話を脳の一生使わない倉庫の入口付近に放り込んで、ひたすら恥ずかしいという女にこんな面白い話しがあるかいと大爆笑して、無理やりジョークに変え、この話題は取り敢えず葬り去った。

2013年3月30日土曜日

女は朝から兄貴夫婦の家へ。毎週末、祭壇にお経を読みに行く。が、それも今週と来週でやっと終わりだ。つまりやっと葬式だ。死んだ人間にこれだけ時間を掛けるのは本当に無駄だと思う。
私はのんびりと過ごす、ゲームで殺し合い、コンビニでビールと唐揚げを喰い、眠る。
女が帰ってきて、兄貴の話をする。兄貴が親父さんが帰ってきたのを見たという。帰ってきた親父さんというのは勿論こないだ末期がんで死んだあの親父さんだ。
見たのは死んだ次の日。ベッドの横で寝ているお母さんを観ていたという。
あの日は前の晩に親父さん死んじまって、それからぶっ続けで念仏を唱えまくるというイカレたイベントをやったばかりなので、そんなものを観てしまう科学的な根拠ってのはいくつだってあげられるだろう。いくつだって。
親父さん死んで、眠りもせずに、一晩中念仏を唱えまくってイエー!超ハイ&ローテンション!幽霊くらい観れるさ、脳の何とかパミンとかのお陰で、さ。
私はふとその姿を思い浮かべようとして、ブルっとした。ゾッとくるぜ。
私は怖いねと女に言った。女は失礼だと激昂、した。そしてもし私の両親が死んだ時に同じ事を言ったら私がどう思うかと言った。
私はもし両親の幽霊が出てきたら逃げると答えた。ココらへんは微妙なところだ、日本でも肉親の幽霊は怖くないたまに聞くがそんな事、誰がそんなこと分かる。もうすでにヒトではなのだ。
最近、映画とかドラマとかで何故、幽霊がわけの分からない行動を取っているのか?というのに論理的な答えをだしたのがある。それは死んだ状況が受け入れられず狂ってしまった、まぁ精神を病んでいるという解釈だ。つまりブルース・ウィリスは精神科医を開業すれば患者に困ることはない。
頭がオカシい奴が隣にいると怖い。昔、仲よかった友達がストレスで精神がぶっ飛んでそいつの両親が迎えに来る間、二三日面倒を見たが怖かった。仲は相当良かったが怖かった。
幽霊で狂人だとしたら両親だろうがなんだろうが怖い。というのが私の理論だ。

2013年3月29日金曜日

女は仕事へ行く。今日は私の毎日が日曜日の終わりの日。終わりの日。

2013年3月28日木曜日

女は恒例のお経を上げに行く。四十九日までやるそうだ。面倒なこった。
今日は私も来るかと聞いたが、私は行かないと答えた。
女は義姉さんも(兄貴の嫁)も来てるのにと文字通り口を尖らせた。
私は行かないと答えた。答えた。

2013年3月27日水曜日

今日は北投という温泉地に行く予定を立てた。午前出発前グダグダしていたら地震。大した震度ではない。女からチャットでお母さんに電話しろと指令が来た。私はそれを無視して家をでた。
二回ほど行ったことが有る風呂屋へ。最近できたとこらしく綺麗でサウナと水風呂があるので気に入っている。昼間は殆ど人が居ないので貸切だ。
私は電車を乗り継いいで風呂屋に直行。受付のねーちゃんが私にお釣りを渡しながらお風呂の後に無料で二階のカフェでお茶が飲めると言った。初耳だ。そういえば前回帰り際に店員のオバちゃんがお茶のんでけよと声を私に掛けたのを思い出した。私はどうせ高いんだろうと無視して店を出たが、無料だったのか。
私は中にKindleを持ち込んで4,5時間は中で過ごした。やはり毎日風呂に入りたい。
脱衣場から出る店員のおじさんが二階のカフェまで案内してくれ、コーヒーとケーキが出てきた。悪くない。前の奴らもちゃんと説明してくれればよかったのに。
家に帰ると女が親父さんの葬式の時に着る服の候補にアイロンをかけろという。シャツが三着ににパンツが二着、どれもすごくカジュアルなものだ。どうせならバシッと黒いスーツの喪服を着せてやれよと思うが、まぁどうせ死んだ奴は文句は言わない。永遠に。
私はアイロンを掛けるが、この家にはアイロン台がない。乾燥機の上に布を敷いてやっていたが、全然うまく行かない。私はアイロン台を買いに行くと言って外に出た。
近所のドデカイ雑貨店へ。日本だとドン・キホーテみたいな何でもあるチェーン店。300元くらいでホコリをかぶっていたのを見つけた。買って帰る。
家について実際使ってみると、酷い品質、直ぐに壊れそうだ。日本語が書いてあったので日本製かと思っていたが、よく見ると文法が無茶苦茶。ヤラれた。
だがそれでもアイロン台としても役目は果たしてくれた。やはり全然捗る。捗る。
アイロンをかけながら女のとりとめのない話を聞く。義姉が先々週くらいから働き出したと言った。子供が生まれてから2ヶ月経ってないが仕事に復帰したらしい。
こっちの連中―中華圏の連中は祖父母に子供の世話を頼むのが普通だ。女と兄貴も幼い頃は祖父母に育てられたらしい。

2013年3月26日火曜日

今日は面接だ。登録していた人材派遣会社から働いてみないかと誘われて、私はOKの返事はしたが、最終的に社長面接してから決まるとうので、今日はその社長面接だ。
午前中は別の登録していた人材派遣会社から面接受けた工事会社から合格の返事が来たと連絡があった。私は取り敢えず断り、午後に出かけた。
私を誘った担当者の雰囲気からして、私が相当の粗相でもしなければ大丈夫そうだ。が、本当のところはどうだかわからない。
私が受付に言って名前を言うと、前は名前やら電話番号を書かされたりしたが、お待ちしておりましたと、前とは別の広い部屋に通された。
内容は詳しくは書かない。粗相はしなかった。来週から働くことになった。ただ気になったのは二回目に来た時にいたかわいい女の子が居なくなっていたことだ。私は帰って女にそれを伝えた。
夜遅くに、洗濯物がどうのこうのという所から火がついて、3時間ほど大喧嘩になり、離婚がどうのこうと相当疲れた。

2013年3月25日月曜日

女が仕事に行ってからしばらくすると、長文のメールが届いた。内容は昨日、私が兄貴夫婦の家でずっとHTCを弄っていてあんまりお母さんと話さなかったので、お母さんが怒っている、ウンタラカンタラというものだった。
喧嘩にならないようにメールできたのだが、結局はGoogleのチャットで喧嘩になる。途中でめんどくさくなり私は返事をやめて、ずっと映画を観ていた。
女が帰ってきてから軽く喧嘩。結局、今後私が態度を良くするということで手打ちになった。

2013年3月24日日曜日

今日は兄貴夫婦の家に行かねばならない。女が車で行くというので渋々承知する。私は車の運転が嫌いだ。
久しぶりに家から10分ほど離れた車庫へ。狭い車庫でこないだはシャッターに散々ドアを擦った。擦った。
キーレスエントリーのボタンを押すが反応なし。鍵でドアを開けエンジンをかけようとするが、かからない。バッテリーが上がったようだ。
私はイラついてこんなボロ車処分しちまおうと本音を漏らすと、女がお父さんがせっかく私達二人にくれたのに酷い!と返してきた。
車を元々必要としない私にとっては余計なお世話と言っても良いプレゼント、いや嫌がらせだ。修理して毎年車税まで払う。クソッタレ。本当に要らない。遺品だといってもこのボログルマが何年持つやら。
さっさと処理して、この車庫をのゴミも全部捨てて人に貸した方が何倍も良い。
取り敢えず私たちは原付で兄貴夫婦の家に。
昼飯を喰って二回ほどお経を唱えて帰る。女が帰り道に私がずっとHTCを弄っていてお母さんと話さなかったので失礼だ怒った。私は嫌々、全く信じてもいない宗教的儀式にこれだけつきあってんだからこれ以上グダグダ言うなとキレた。今日の所はそれで収まった。今日の所は。

2013年3月23日土曜日

毎週末土日、兄貴夫婦の家にお経を唱えに行ってるのだが、もう女に勘弁してくれと交渉した。結果私はどちらか一日だけ行く事になり今日は行かないことになった。ついでに肉食わないといのも一人の時は開放してもらった。まぁこれは私は親父さんが死んだ次の日から肉を喰いまくっていたが。
午前は二人で家の掃除して、午後は女は一人で兄貴夫婦の家へ。私はダラダラとPS3やらネットをしていた。

2013年3月22日金曜日

先週セブン-イレブンSIMカードとHTC携帯が揃ったが、最低限の設定だけしてずっとほかっていたがちょっと弄ってみる。
SDカードを入れないと画像も保存してくれなかったので、32Gのを買ってぶち込む。クラス4で700元くらい。ちょっと高い。
ちょっと弄ってみると悪くない。悪くない。入力の言語の切り替えが面倒なくらい、だ。
素晴らしいのはデフォルトで中に放り込んである音楽を好きに着信音に出来ることだ。こんなことが素晴らしいとおもえるとは。
動画ファイルも適当なのを放り込んでみると何でも再生できる。モバイルルーター代わりくらいの気持ちだったがメインを張れるかもしれない。

2013年3月21日木曜日

PS3・BF3がやめられない。午前いっぱいゲーム。そういえば屋上の家庭菜園に水をここ二日くらいやってない。だが戦争中に家庭菜園の水を気にするバカがいるだろうか?
女が午後からまた寺でお経を唱えに行くので、昼に帰ってくる。私は袋入りラーメンを作っておけといわれたので、ギリギリまでテレビの前。30分ほど掛けて野菜炒めのせラーメンを作る。
女が珍しく美味いと言った。

2013年3月20日水曜日

女を送り出してPS3の電源を入れる。ここ数日BF3に取り憑かれている。久しぶりにやったが、やめられない。
爆音でやりすぎまた警察に通報された。今度は若い警官が二人。ゲームだと説明すると前の警官のようにきつい感じもなく、なーんだゲームか中国語上手いねとさっさと帰っていった。今度こそ気をつけないと女にバレて死ぬほど怒られるだろう。
午後、誘いのあった会社に電話。社長が来週はいるので社長にあってOKがでたらそれで全てOKだという。

2013年3月19日火曜日

女と相談して誘いのあった就職会社で取り敢えず働こうということになった。
晩飯に女が白飯に中華料理にコーンポタージュスープを作った。私は全然料理とあってないから食べなかった。女は理解できないと言った。

2013年3月18日月曜日

今日は面接だ。向かう先は日本の工事会社。場所は台北市内だが微妙に遠いところにある。行くのに二時間かかった。
元々仕事的にもあまり興味がなく乗り気じゃなかったが、この二時間を経て更に乗り気じゃなくなった。
時間になるまで待ち私はマンションの一室にあるその会社へ。会社へ。
若い男の日本人が私を応接室に通してくれた。中には5人ほどの人間がいた。
しばらくすると面接官がやって来た。
面接官は履歴書を見せてくれというので、私は転職会社からすでに渡されているので持ってきてないと答えた。
面接官は少し驚いた感じで、何もなしですかと言って、私の履歴書をプリントアウトするために出て行った。本当はセブン-イレブンにプリントアウトしに行くのが面倒くさかったのだ。それくらいやる気がなかった。
私は今直ぐにでも帰りたい気分が加速。面接官が戻ってきて早く終われと思いながら面接を受ける。
面接はそれなりに良好に終わった。3回ほど合格したら働く気はあるかと聞かれた。相当な人材不足なんだろう。
私は面接を終え、微妙な感じだった。
面接官に言われたのは、台湾に進出したばかりで仕事が無いので給料は低いが、バリバリやって会社の業績を上げてほしい。事業が拡大して立ち上げメンバーにはいずれ重役になって欲しい、ということだった。
もし仕事内容に興味があれば、給料が安くてもバリバリ働くのに異存はない。が、仕事内容に興味がなさすぎる。
私は女と相談してこの会社はスルーということになった。

2013年3月17日日曜日

また原付で兄貴の家へ。めんどくさい。本当は昨日お母さんに泊まっていけと言われていたが、私は断固拒否し、さっさと帰った。今日もその予定だ。
取り敢えずみんなで昼飯を喰って、またお経を唱える。女がお母さんに私が日本語でお経を読んでいるとか何とか言ったので、お母さんが聞いてみたいと言い出した。私は適当にお経っぽく読んでみせた。
それから女がお母さんの葬式の服を買いに行くからとUNIQLOへ。葬式の服をUNIQLOで買うなどと聞いたことはない。何でも葬式の一番大事な時の衣装は葬儀会社が用意するので、本当は必要ないのだが、その前の軽い儀式の服は必要らしく、それは黒ければ何でも良いらしい。
女は黒いシャツを買った。

2013年3月16日土曜日

台湾の仏教式葬式は長い。道教はもっと面倒で長いらしいが。
占いで決まった日取りまで、休日は祭壇が置かれた家を訪ねて念仏を上げる。めんどくさい。毎週土日は行かねばならないらしい。めんどくさい。
親戚も土日どっちかは顔をだす感じ、親戚が5,60人いるので常に客がいるような状態。本当にめんどくさい。
原付で30分くらい掛けて、祭壇のある兄貴の家へ。一日三回お経を読むのだが、行くと二回ほど付きあわせられる。私は死んだ人間に対して意味の分からないお経を唱えることに何の意味も見いだせないので適当に飛ばし読み。
女が帰るとちゃんと読めとか何とかうるさいので、読んだと答えると、私より中国語が早いわけがないと、またうるさい。私は日本語で読んだ、小さい頃はよく読まされたのでスピードは早いと適当に答えた。
今まで生きてきてお経なんか読んだことはない。女は納得した。

2013年3月15日金曜日

新しく登録した会社から面接の連絡。月曜日に面接、日系の工事会社。
夜女が帰って来たので、モバイルルーターを買いに行こうと言うと、モバイルルーターの白ロムを買って女がもっと安い会社のSIMを入れようという。
私は女に言った。安い会社ってどこだよ?大手三大キャリア以外は糞だって昨日自分で言ってたろう、安いってどこ7mobileか?
台湾のセブン-イレブンはケータイのSIMも売ってる。コンビニでよくCMを見てたので何となく口をついてでた。
女がそれだ!と答えた。
セブン-イレブンに言って聞いてみるが、データ通信だけのSIMはないらしい。それなら今のケータイは解約して、モバイルルーターじゃなくてスマートフォンを買ったほうが良いという結論になった。
HTCの4500元くらいのスマートフォンを女がヤフオクで即ゲット。(htc desireC)

2013年3月14日木曜日

女は午後から寺だか何だかに念仏をやりに行くので休み。49日が住むまで週一回やるらしい。私は行かない。女が私がもうすでにす事を見つけて働き始めているとみんなに言ってしまったからだ。お母さんは私がわざわざ休んで来る程でもないからと前日に電話があった。本当は一番暇なんだが。(私は日本の大手の宅急便の会社で働いていると言ってしまったようだ。)
午前中は私と女は携帯会社に行く。私が外でもネットを使えるようにしてくれとさんざん頼んみやっと受け入れられたのだ。
選択肢は2つ、モバイルルーターかテザリング機能付きのスマートフォンか。
携帯会社を幾つか周り値段表を比較。使い放題だと大体1200元弱ってのが大体の相場。モバイルルーターなら3年縛りで850元~750元。モバイルルーターを買おうということになった。
夜、女が帰って来てから、再び携帯ショップ。しかし女は私の携帯を契約してから一ヶ月経っていないので、今日は買えないといわれる。一ヶ月に一台しか契約できない規則があるようだ。明日なら大丈夫と言われ帰る。(私が契約しようとしたが外国人はデカイ店じゃないと無理らしい)

2013年3月13日水曜日

女が仕事に行った。私はPS3でバトルフィールド3にログイン。このクソみたいな家で、元々あったもので唯一価値があるモノ―50インチのハイビジョンテレビ。美しい映像。調子に乗って爆音でプレイ。
一年のブランクは私の腕は最低になった。
呼び鈴がなった。戦争中に呼び鈴がなったからと仲間を見殺しにするか?何度かなる。嫌な予感がする。
覗き穴を除くと外にいるのは警察官。腰にオートマチックの銃をぶら下げてるから間違いない。
ドアを開ける。戦争中でも警官には協力しなければ。
警官は騒音で近所から通報されたと言った。プラス私の声と何処かの国のプレイヤーのファックと叫ぶ声で何かあったと思われたのだ。
警官にゲームをしていたと説明し、謝る。一応わかってくれたようだが、家の中を確認するという。
警官は居間に入り、サッと中を確認しさらに私の身分証明証を確認、更にまた女の電話番号を聞いて掛け始めた。
これで女が出たら相当怒られる。女は出なかった。
女は知らない番号から掛かって来ても大体かけ直さないので多分大丈夫だ。
警官は最後に私の番号を聞いいて帰っていった。

2013年3月12日火曜日

久しぶりにスーツを着て外出。転職会社の面接だ。
会社に着くといつもの担当のオッサンが出てきて、今日は普段着で良かったのに良い忘れてたわと一言。面接じゃないのか?
面接と言うよりは勧誘だった。そこそこ若い日本人の基幹社員が一人欲しいので私に声を掛けたということらしい。
他にも面接を受けるので返事を保留して会社を出る。
雇用条件は我慢出来る範囲だ。取り敢えず仕事は確保できたので私は安心した。
スーツが破れていたので台北駅前の三越で新しいスーツを買う。6万くらいだった。まぁ良いのが一着あれば、基本的にスーツを着る習慣がない台湾では十分そうだ。

2013年3月11日月曜日

登録している就職会社から電話があった。内容はウチの面接を受けてみない?私は明日面接を受けると返事をした。
私は今日は温泉にでも行こうと思い、朝から出かける。
朝飯はコンビニで牛肉麺と唐揚げとおにぎりとビール。喪中なので全部NGなのだが、私にとってはどうでもいいことだ。
台北の北にある温泉地で温泉に入る。平日なので誰もいない。貸切りだ。
それから台北駅周辺で買物。Bluetoothのマウスが壊れたので新しいマウスとPS3及びタブレット用のBluetoothキーボードを買った。
ついでに昼飯。ペッパーランチでステーキ。日本でも行ったことはなかったので生まれて初めてだ。

2013年3月10日日曜日

朝八時くらいに起きる。女だけが寝ていた。特にやることもないみたいだ。朝昼晩やると言ってた念仏をやる気もないらしい。よくわからない。
親戚が訪ねて来ては去っていく。親父さんもお母さんも兄弟が5,6人いてさらにそれに3,4人子供がいるので親戚は相当を多い。
病院の霊安室で私を気遣ってくれた叔母さんもやって来た。叔母さんは何故か私に朝ごはんにたべてくれと、台湾のおにぎりみたいな料理を買ってきてくれた。
それからまっったくやることがないので、叔母さんが近くに山があるから女と散歩に行って来いと言ってくれ。私たちは散歩に。天気が良かったのでこれはなかなかの息抜きになった。
午後は親父さんの遺骨を放り込む納骨堂を見に行く。
台北の郊外の山奥。13階建ての円形の塔。中身は趣味の悪い骨壷コインロッカーだ。豪華さで三段階くらいに値段が別れており一番高いのはVIP区と書かれている。親父さんの骨はVIP区に放り込むらしい。VIPというネーミングに美学がない。仏教ぽい名前をつければいいのに。
骨壷ロッカーの場所の候補を2つくらいに絞って納骨堂を後にする。その後に葬儀会社のオッサンと葬儀の日程の相談。
これは死んだ人間の生まれた日時や死んだ日時から占いで決める。アホらしい。来月の上旬くらいにやるらしい。
夜、やっと家に帰る。疲労が原因だろうが、酷い頭痛。薬を買ってきてもらう。

2013年3月9日土曜日

深夜プラスワン―引き続き・霊安室。アミトフのワンフレーズを唱え続ける。
次々と親族が来ては消えて行く。残るのは親父さんと直接血縁関係が人間だけ。三人の妹と兄夫婦が残った。
また霊安室のドアが開く、変な布を体に巻いた坊主頭のデブがいる。よく見るとそいつは袈裟だった。坊さんがやって来た。
坊さんはお経のボリュームをマックスに上げ私達を外に出し、この儀式の説明を始めた。朝の8時に遺体を取りに来るまでこのイカレた儀式を続けるらしい。私も死にたくなった。
坊さんは中での規則の説明をした。今まで立ってやっていたが座っても良い、中では喰うのは禁止だが、飲み物は何を飲んでも良い、私語は禁止、疲れたら外で適当に休んだり体を動かすのは全く問題なし、坊さんは二時間ほどで帰る。
ちょうど12時くらいなので、八時間はたっぷりある。クソッタレ。
坊さんは私達をまた霊安室に入れた。坊さんはまず親父さんの死体に話しかけた。
内容は仏教用語が多くてほとんど聞き取れなかったが、大まかにはあなたは死んだので成仏しなさいウンタラカンタラ これから天国までの道のりはどうのこうの、親族や仙女が出てきてもそれは悪魔の誘いなので気をつけろとかそんな事を20分くらい話していた。それが終わるとまたワンフレーズ念仏の開始だ。
三姉妹の一番上の叔母さんが全員にペットボトルの水を買ってきて配った。私には最初に水をくれ、ちょっと外で安んでいいと言ってくれた。
ワンフレーズのお経を唱え続ける、よっぽど悲しくない限り眠くてしょうが無い。お母さんと女と兄貴の悲しみのテンションはMAXIMUM!!水も飲まずにぶっ続けで唱えまくってる。私と坊さんのテンションは勿論低い。兄妹たちもテンションはだいぶ低め。だいぶ前からあれだったのでみんな覚悟ができてたからだろう。
私は眠らないように水をガブ飲みしたり、水で顔を洗ったり色々としていた。坊さんは普通に寝ていた。坊さんは特にお経の声がデカイので寝ると直ぐにわかる。
坊さんも帰って深夜二時。私はコンビニでコーヒーとレッドブルをがぶ飲み。
お母さんと子どもたちはガンガンお経を唱えてるが、他の親族たちは私と同様で大分疲れてきた。外に休憩に行ったり、うたた寝したり。
後二時間という所で女が私に何で出たり入ったりしてるんだとお母さんが怒ってるとごちゃごちゃ言い出した。私は坊さんの言うとおりやってるだけだと言ったが、二時間ほどは我慢して座っていた。
朝8時、ドアが開く。病院の職員が来て死体の確認を兄貴とやっている。イエー!!やっと終わりらしい。次に入ってきたのは葬儀会社の連中、また死体に話しかけている。今からどこどこに行きますどうのこうのという感じ、これも五分くらいの長さで私はイラついた。
それが終わりやっと死体を移動専用のストレッチャーに載せかえる。ストレッチャーの四方には棒があり専用のカバーを被せると見かけは棺桶に入れたみたいだ。
車で30分くらいの移動。道中は何故か坂に差し掛かると中の人間が一斉に死体に”坂だよー”と叫んだ。
着いたの葬式場+火葬場+死体安置所の総合施設。
簡単な手続きを済ませて死体をテレビでよく見るようなロッカータイプのヤツに放り込む。その時にもまた死体に話しかける、これも長い、5分くらいあった。内容は毎回毎回同じような感じだ。頭にくる。
放り込む寸前、死体を包んでいた布から親父さんの顔が見えた。死んだ直後、口が半開きだったが閉じていた。私は口が開きっぱなしだったので死後硬直したら面倒なことになると心配していたが、自然に閉まるものらしい。(あとからみんな話していたが、口と目が自然に閉じていたのは朝まで念仏を唱え続けた結果ということらしい。また浮腫んでいた顔も治っていたとみんなびっくりしていたが、顔の浮腫は念仏を唱える頃には治っていたのを私は見ている。)
ここで一時解散だ。
女と二人で家に帰る。ストレスとレッドブルとコーヒーが私の胃を痛めつけている。クソッタレ。
私と女はシャワーを浴び、ベッドに入った。私はこれからの予定を聞いた。
今日は午後から兄貴の家に行く。兄貴の家には祭壇が作られているのでまた今日の夜と明日に念仏をやるだろうと言う。私はゲロを吐き散らしたくなるような衝動を覚えた。
すると女が今日のようにごちゃごちゃ動くなと私に言った。私は父親が死んだばかりの女を気遣ってやりたかったが、マジギレした。今日と明日の為にも。マジギレした。(台湾に来てからのストレスが頂点に達した、ちょうどこの時に)
私は眠気を抑えるための最大限の努力を行っただけであり、休憩だって五分以上はとってない。
女はシクシク泣いて喧嘩したくないと言った。
私は今日と明日の念仏を乗り切るには、下らん文句を言わせてはマジで現場でキレそうなので、更に泣いてる女に言った。私に文句を言う前に、寝たりらいちょこちょこ外に休憩をとりに言っていた実の兄妹たちに文句を言え、と。
女はまたごちゃごちゃ言っていたが、私も強く言い過ぎたと謝り、喧嘩は終わった。喧嘩と言うよりは私が女を泣かしただけだが。
二人で二時間ほど眠った。
起きたてから、親父さんの葬式に使う写真やお母さんの服などを探す。その時に女が札束を発見。札は人民元だ。財テクだけが趣味の奴が死ぬと虚しいと思った。
兄貴の家へ。葬儀会社(この時にわかったのだが正確に言うと仏教団体の葬儀部門なのらしい)が祭壇を作っていた。祭壇が作り終わると私達に朝昼晩フルーツを捧げてお経を唱えろと言い残して退散していった。
取り敢えず昼の一発目のお経を唱える。この時初めて朝まで唱えていた念仏のフレーズが何なのかわかった。南無阿弥陀仏の阿弥陀仏だった。
どうやらみんなで10分くらいのお経を唱えるだけで、昨日様な事はしないらしい。
それからはただまったり。兄貴夫婦の赤ん坊の面倒みたり、訪れた親戚たちの相手をしたり。
夜、晩飯を喰ってみんなで念仏を唱える。時間があるので30分くらいのバージョンをやる。各個に勝手に唱える感じで、赤ん坊がないたら中座したりと適当な感じ。イマイチどんなテンションかわからない。
それから女と私は原付の乗って赤ん坊の靴を買いに行く。そいう習慣らしい。
帰って来たらみんな爆睡。私は木の長椅子にタオルケットを敷いて、更にその上に敷いた寝袋の中で眠った。

2013年3月8日金曜日

回線業者がやって来てぶつ切り回線を直していった。昼には電気屋が来るはずだが、4時くらいまでこなかった。これが台湾だ。
来たら仕事はちゃんとヤッてくれて、やっとマトモにネットが出来る状態になった。
夜、再び病院に行く。その道すがら女が私にお母さんがもっと親父さんに話しかけるように言っていたので、今日は親父さんに話しかけるようにと言った。
私はモルヒネでラリっていて話しても無駄だと思っていたが、話しかけたほうがいいらしい。今更言うなという感じで私は少しかちんと来た。
病院につく。ここらへんは標高が高いので原付で来ると寒い。
病室に入るとベッドで知らないオッサンが眠っていた。アレっと思ったが、それは親父さんだった。顔が異常に浮腫んでいる。特にまぶたが腫れていて別人の顔になっていた。
お母さんが私達に水を飲ませる時は、スポイトを使えと言い残して帰っていった。もう何をする力も残っていなのだ。
私と女は親父さんをマッサージした。私はマッサージをしながらもう早く楽になって欲しいと思った。口には出せないが。
それから一時間ほどして看護師が体温と血圧を測りにやって来た。体温は異常なし、血圧は二度測ったが両方とも低いほうが66とか70とかだった。看護師は医者を呼びに行った。
五分もしないうちに医者の代わりにテレビでよく見る機械を押して戻ってきた。電気ショックをやる除細動器ってやつだ。遂にか、と私は思った。
看護師は一応ダイジョブだと思うけどこれを設置しますねと、親父さんのベッドの横に置き、それを親父さんにつないだ。除細動器からは親父さんの鼓動をモニターし始めた。正常に動いている。両方共。
私は女にお母さんに報告するように言った。女は心配させすぎるといけないから止めておくといった。女はよく嫌なことを見ないようにする。
私は絶対に電話しろと強く言った、事実は言うだけでいい、と。女は電話した。
私は大丈夫そうなので原付の移動とメールのチェックに行くと病室を後にした。今日も長い夜になるだろうと私はセブン-イレブンで牛肉面にソーセージをぶち込んでそれを腹にぶち込んだ。
PCを開いて直ぐに電話がなった。女だ。女が言った、もう直ぐ爸爸が死ぬと。
私はPCを手早く片付けて病室に戻った。
病室に入ると女と看護師が口を大きく開けて目は半開きの親父さんの服を脱がしていた。こっちの人間は死ぬ時は家で死なせる、女もさっきそう言っていたので帰る準備をしているのだと思った。
除細動器から聞こえる鼓動の音はさっきのペースの半分くらいだった。
女が私を見て爸爸が死んだと言った。
私は服を脱がすのを手伝った。女が除細動器のケーブルを親父さんから剥ぎ取ったら、看護師が飛んできてまだダメだとケーブルを付け直した。
女は何か事務手続きをしてくれと言われて病室から出て行った。私は荷物を片付け始めた。
しばらくすると兄貴とお母さんがやって来た。お母さんは親父さんの手を握って泣いていた。
気がつくとケーブルはすでに撤去されて親父さんは静かにベッドで死んだように眠っていた。
私はその姿を見て思った。アレもう死んでねぇ?
どうみも体は微動だにしていない。触ってみたが動いてない。ゴミを捨てに行ってるうちに死んでしまったのか?だが親父さんが死んだかどうか聞ける雰囲気ではない。でもついさっき看護師も話しかけてたのにな。
五分後くらいに私と女が荷物を車に詰み行くように言われたので、私は女にこれからどうするのか聞いた。家に戻るのか?と。
女は多分、葬儀場に連れて行くという。私は家には行かないのかと聞いた。もう間に合わないと女は言った。どうとも取れる返事だ。
私はハッキリと聞いた。親父さんはもう死んだの?と。
女は私が病室に帰ってくる前に死んだと言った。ほんの10秒くらいまえらしい。だが除細動器からは親父さんの鼓動をモニターするビープ音が鳴っていた。女にこのあともいろいろ聞いたが女も混乱していたので親父さんがどこのタイミングで死んだのかはよくわからなかった。細かい話なので私はもう気にしないことにした。
荷物を車に放り込んで病室に戻ると病室は空。看護師の話ではどうも遺体安置所にいったらしい。
安置所には仏教の祭壇があり、三蔵法師みたいな仏像が祭ってあった。その前に親父さんの遺体は黄色い布にくるまれ安置してあった。
安置所には一フレーズだけを永遠に繰り返すお経みたいなのが流れていた。
お母さんは手を合わせてそのフレーズを繰り返していた。女は爸爸はナントカナントカの仏教だからアミトフと唱えてと私に言って、お母さんと一緒に手を合わせてそのフレーズを繰り返し始めた。私もそれに習った。
私は親父さんが包まれた黄色い布を見ながら、まったく悲しくなかった。義理の親子といっても付き合いは浅かった。知り合ったのは4,5年前だが会う機会は殆ど無く、一緒に暮らしたのも一ヶ月足らず。腹を割って話したこともなかった。顔見知りのオッサンが死んだくらいの感じだ。
そんな事を考えていると次々と親戚が入ってきて、念仏を唱えだした。
私は思った、まさかこれ朝まで続くの?

2013年3月7日木曜日

朝、病院から帰ってくる。眠る。眠る。少しだけ。
女は仕事へ、午後やっとネットの回線の業者が来る。
無線LAN機能付きのゲートウェイだったが、無線LANの申請をしてないので使えないようにしてあるからと業者の兄ちゃん。申請すれば10日後くらいにまたきてやってやる、でも月額費用が増えるからと続けて、さっさと帰っていった。
無線LANルーターはあるが、無駄に二台無線LANルーターを連ねてもどうしようもないので、自分で弄ってみる。
ブラウザからは接続できたので、中の設定を色々弄ってみるがどこかわからない。有線でネットに接続して色々調べて見たが、調べている間に回線がたまに切断される。
女が夜帰ってきたら、私は解約してしまえと女に言った。女はサービスセンターに電話したが、明日回線は業者を派遣してなんとかするとヤラれてしまった。
無線LANの設定も近所の電気屋に設定してもらうからと女。
私は渋々だが納得した。

2013年3月6日水曜日

夜。女が帰ってきて病院に行くと言った。私が病院お泊りグッズを準備していると顔見に行くだけだからと直ぐ帰ってくると言うので、私は財布だけポッケットに突っ込み原付にまたがった。
病室に着くとお母さんと兄貴が帰り支度をする。荷物でも取りに帰るのかと思っていたが、女と明日の朝6時くらいには来ると言っている。
どうもついさっき気が変わったらしい。クソッタレめ。暇つぶしお泊りグッズは置いてきた。
親父さんに目をやる。驚愕。頬は更に痩けこて、こめかみの辺りも痩けて頭蓋骨の輪郭がはっきりしている。目と口は半開きで、半開きのまぶたから覗く白目は黄色く濁っている。鼻にはチューブを入れらていた。
私が呆気にとられていると、お母さんが親指よりデカイ綿棒に水を浸して、親父さんの口に突っ込むと親父さんは餓えた子犬みたいにしゃぶりついて水を飲んだ。生きているのではなく、生かされいるだけだ。
お母さんと兄貴が帰りしばらくすると、親父さんが目を開き私達に”再見、再見”と言った。その後私達に早く行け、早く行けと繰り返し、自分も立ち上がってどっかに行こうとした。勿論、自分の力で歩けないので何処にも行けなかったが。
モルヒネでラリった親父さんは朝まで自分が何をしたいかわからず、混乱していた。
小便をしたいといってズボンを脱いでも、直ぐにそれを忘れてズボンを履きそのまま便器に座り、その後また何をしていたか忘れてベッドに戻ったりと、朝までそんな事を繰り返していた。

2013年3月5日火曜日

女を送り出して洗濯やら何やらを済ませて、コンビニへ行く無線LANを求めて。ケーブルテレビを解約したのでネットが使えないのだ。水曜日か木曜日に新し会社が設置に来てくれるらしいが。
昨日の就職会社に応募する会社用の自己アピールを書いて送る。
家に戻り、この家で唯一価値のある50インチのテレビ映画を見ながらダラダラ過ごす。
女が帰って来て一緒に飯を喰う。その時にふと女が、私の台湾でのこの家の生活がのんびりリラックス出来ていいでしょう、と言った。いどない。私にとっては、潔癖症の変人夫婦が住む窮屈な暮らしでしかない。変人夫婦は今は居ないが、その夫婦の受け入れがたい規則は残っている。
私は正直に女にその事を言った。自分の家で有るという感覚は一切ない、お前と一緒だから辛うじて我慢している。
女は私の言葉にショックを受けたようだが、理解してくれた。
夜、お母さんから電話。女が話し込んでいる。電話を切った女にどうだったと聞いてみた。
すると女が内容を教えてくれた。お母さんが今日全ての株券を金に変えてお母さんの口座に入れた。しかしその金額は兄には決して言わないこと。
私はなぜだと聞いた。兄貴は知っていも何ら問題のない事柄だ。母親から遺産を根こそぎもぎ取っていくような男ではないし、両親との関係も良好だ。
女が言うには、お母さんは入院してから全く金をだしてくれない兄貴に相当苛立っているらしい。加えて兄貴が一度も泊まりこみで親父さんの世話をしていないのにも怒っている。それで大金をもっていると兄貴にしれると、これから更に金を出してくれない、すると大事な老後の資金から出さざる得ない、これがお母さんは嫌なのだという。
私は兄貴夫婦は両親にマンションを買ってやっただろう、それだけでも十分じゃないかと女に言った。女はそのマンションは兄貴名義だから買ってやったとは違うという。さらにマンションを買うときにちょっと揉めたらしい。
女の両親は親父さんの調子が悪いのでエレベーター付きのマンションを買うように兄貴夫婦に頼んだ。兄貴夫婦が住むマンションに空き部屋があるのでそこが良いと。兄貴夫婦は一緒に住めばいいと言った。5部屋はあるし十分な広さだから私はまっとうな返答だと思う。
しかし女の両親は同居は兄貴夫婦に悪いので新しいマンションを買えという。買わないなら今住んでいるマンションを売り払って買うと兄貴夫婦に迫った。私はそっちのほうが兄貴夫婦に悪いだろうと思うが。
今住んでいるマンションは両親が相当苦労して買ったのを兄貴夫婦は知っているので、新しいマンションを兄貴夫婦は買ったのだ。
なるほど兄貴夫婦が金を出さないわけだ。私だって同じ立場なら出さない。しかも女の両親は金がない分けじゃないのだ。
私は女に兄貴夫婦に同情するといった。まったく心の底から同情する。
ちなみに親父さんはもう相当ヤバイらしい。最近は女もよく葬式の心配をしている。

2013年3月4日月曜日

今日はやっとビザ―居留証を取りに行く。やっと。
私は朝、女を仕事に送り出し、家庭菜園に水をやると家を出た。
三度目の移民局へ。受け取りの窓口で直ぐにそれは手に入った。
居留証はカードタイプだ。そこにはもっとも重要な事が書かれている。”これを所持している人間は労働ビザのの許可・申請を必要としない”
裏にも”これを所持している人間は期限以内なら何度でも入国が可能である”
一年後にはまた延長申請が必要だ。次の申請は3年目の期限で申請ができる。5年経つと延長申請は不要になる。
これを手に入れるのに手間だけはたっぷりと掛かった。私はテンション高めに駅まで歩いた。
今日はもうひとつ用事がある。新しい就職会社に登録してその面談行く予定だ。
モスバーガーでメシを食いながら、道を調べる。簡単な道だ。
約束の30分前に頭に叩き込んだ地図の場所に行く。ない。慌てて会社の住所と目の前のビルの住所を見比べる。全然違う。これは多分駅から全然違う方向来たなと思い控えす。
引き返す道すがらいろいろ地図を見て調べるが、全然全然わからない。
駅まで戻ってやっと正しい方向がわかった時には、遅れそうだったので遅れると電話。やっと辿り着く。思っていたよりも糞でかいビルにオフィスをもってる。
担当者は女性の日本人で20分くらい経歴の説明をする、後半は中国語のレベルを確かめるために中国語で自己紹介とか自己アピールをさせられ、質問とかをされる。一応問題ないといわれる。
取り敢えず今紹介できる会社として2つの会社の資料を見せてくれた。一つはネットゲームの会社で日本のユーザーの対応をするような仕事。もう一つは日本のリフォームかなんかの会社で現場で日本の社員と台湾の作業員の簡単な通訳とか作業の監督をするような仕事。
取り敢えず両方応募することにして私は家に帰った。

2013年3月3日日曜日

病院から帰ってくる。ここ一週間、腰がひどく痛む。痛む。
病院で止まっている時に変な姿勢ばかりで寝ていたので、それが効いてきたんだろう。
私は元々腰を痛めていてたので、何かキッカケがアレば直ぐにぶり返す。ちょっと前かがみになるだけでも痛い。これはヤバイので女に針に連れてってくれるように頼んだ。
数年前、東京で働いていいた時に肩こりと腰痛が酷い時があった。その時ちょうど台湾に女に会いに行ったのだがその時に、女の実家の近くの針の病院に行ったのだが、一発で治った。
そこの医院長がかなりのもんで、その病院は行列ができてる。
医院長の針の打ち方はちょっと変わっていて、何処が痛かろうが、右手の指の付け根の間に4,5センチの針をぶっ刺す。そしてその針にお灸をさす。
さほど痛くはないのだが、針が神経と神経の間に入ってくる感覚は愉快なものではない。出来れば腰にでも指してくれれば(他の病院では腰にしてくれた)見えなくて痛さも殆ど無いのだが。しかし効果は抜群、折り紙つき。その針治療を受けた後に女にマッサージをしてもらったのだが、いつもなら痛くて悲鳴を上げるのだが、女がどれだけ渾身の力を込めても私は何の痛みも感じなかった。
女と一緒に原付で病院へ。相当待たされやっと治療。
こっちの医者は診察の時に手を握る。手を握れば症状が分かるらしい。医者は何処が痛いのか簡単に質問し、手をちょっと握ってわかったという感じで、私の手にアルコールを塗り始めた。
私がクソ!やっぱり手かと思った時には、手に痛み。小指と薬指の間に鈍いような激しいようなわけの分からない痛み。思わず声が漏れ、私は俯いて目を瞑り苦痛に耐える。
前回より明らかに痛い。医者は次々と私の拳に貼りを挿していく。気がついたら五本の針が私の拳に刺さっている。
医者が女に何か言ってるが、拳の奥の”鋭い鈍痛”と矛盾した形容詞でなければ表せない痛みで何も耳に入ってこない。
10分くらいそこらを歩いて来いと最後に言われたのは分かったが。外に出ると看護婦が針にお灸をぶっ刺して火をつけた。
外に出ようと入り口までいったが、風が強い。私は風の針が振動が伝わると想像すると外に出るなどという気は完全に失せた。しょうがなく待合室をウロウロ。小学生の女の子が私のその様を見て怯えていた。
そろそろ10分かと針を抜いてもらいに診察室の近くにいったら看護婦がちょっと横になって待ってくれという。私は女に靴を脱がしてもらいベッドのうつ伏せになる。
しばらくしてまた看護婦。医者がだいぶ痛そうなので特別になんかしてくれるという。
直ぐに医者が来て私の膝の裏とふくらはぎの裏に針を打ち始めた。多分合計10本くらい。一箇所だけまた痛みを感じ、私は声を上げた。女が20分くらいはこのままだという。クソったれ。
その20分の間に女が説明してくれた。痛めた腰のアタリの血管の汚れた血を抜いているのだという。私は見えないし何も感じないのだが今出血してるらしい。どす黒い血が。
小指と薬指の間の針が痛い。手の甲の一部が細くエクボの用に凹んでいる。ここ抜く時はまた痛いんだろうと考えると、抜いてほしんだか抜いてほしくないんだか。
20分後、唐突に医者が現れ、針をさっさと抜き始めた。そして唐突に右手に一瞬、神経をグリグリと何かされたような嫌な痛み。終わった。
一週間分の漢方薬も貰って700元。健康保険があればもう少し安いらしいが、漢方薬の量を考えると結構サービスしてくれたようだ。
効果は直ぐに出るから良い。前かがみになってもほとんど痛みは感じない。
医者が言うには、最大の原因は運動不足、背中の筋肉が硬くなってるのだ。私は帰りにジャージを買って明日の朝から運動することにした、

2013年3月2日土曜日

女と親父さんの病院へ行く。病院に行くたびに親父さんは痩せていたが、今日は前と変わった印象はない。痩せる限界が来たんだろう。
今日は妙に元気そうだ。元気そうだ。妙に。
いつもは喋るのも苦痛なので、ちょっとしたジェスチャーしかしないのに、私にすまないねぇなどと言葉を掛けた。更に書くものをよこせと言い、今は時期が悪いから元は買うなとか、プラチナの結婚指輪を買ったほうがいいとか色々と言い出した。
前は小便をする時はベッドの横の簡易便器に座ってしていたが、今日は豪快に立ちションだ。お陰で何回も女は床にこぼれた小便の掃除をするは目になった。
いつもはどれだけ進めても何も食べないのだが、今日は自分から梨が喰いたいと言い出し、いつもに比べれば豪快に食べた。といっても普通の人間なら一口か二口の量だったが。
女が私に今日はモルヒネを打ってるのでオカシイと私にそっと教えた。

しばらくすると親父さんは眠った。それから直ぐに生暖かい屁の音がした。これは漏らしたなと私は思った。布団をめくってみると案の定だった。私は女に看護婦を呼ぶよう言った。
看護婦さんに手伝ってもらい後始末。女は何の躊躇いもなく親父さんの汚れた尻を拭いた。
尻を拭く以外の事は、私も手伝い看護婦さんと三人でオムツを履かした。オムツを履かしてる時にも親父さんはクソを漏らしていた。それをみて女は看護婦さんと笑っていたので、私は少し安心した。

2013年3月1日金曜日

今日は祝日と週末に挟まれているので、本来は何でもない日なのだが、ほとんどの会社は休みになる。らしい。日本だとせいぜい有給取得推奨日程度だろうが、普通に休み。女も休みだ。
女がネットを新しい会社に切り替えるので、今のネットを解約しに行くと言い出した。今はケーブルテレビとネットのセットだ。テレビをふたりとも見ない。
周辺機器を全部取り外して直接持って行って解約処理をしなければならない。あと兄貴が契約したので、兄貴の身分証明書のコピー等アホみたいにいるものが多いので、その手配だけで午前が終わった。
原付でケーブルテレビの会社へ。結構な数の人間が並んでいる。
あと少しでと言う所で女がどうやら印鑑が必要だと、他の人を見て気がついた。そう台湾にもこのクソ面倒くさい習慣がしっかりと根づいてやがる。
そこらで買ってくるとでていき、私は一人でずっとKindleで三国志を読んでいた。
結局全て終わった頃には5時近く、本当は私のビザ―居留証を受け取りに行くはずだったが時間切れだ。月曜日にでも取りに行けばいい。

2013年2月28日木曜日

深夜プラスワン―引き続き病室。
ここにいてやることは親父さんがトイレに行くと時に手を貸すだけ。朝までに10回くらいはトイレにいくのでほとんど眠れない。
ベッドの脇には簡易のトイレが置いてある。椅子に取り外しができる洗面器みたいなものがついたもので、お母さんが入院して直ぐに買ったものだが親父さんはずっと使うのを拒否していた。
だが今日はベッドから手を借りて立ち上がると、簡易トイレを指さした。もうトイレまでの数メートルも耐え難い苦痛なのだろう。
今まではトイレに連れて行くだけだったが、プラス簡易トイレの掃除もすることになった。と言っても掃除の方は女が全てヤッてくれたが。
朝になる。浅い眠り。メシの買い出しのついでにセブンの激辛おでんを喰う。
お母さんが午後には来る予定だと聞いていたが、その前に兄夫婦が子供をつれてやって来た。初孫を見て親父さんが久しぶりに笑っていた。私はiPod touchで二人の写真をとった。
兄夫婦が引き上げると、親父さんのお兄さん夫婦がやって来た。私にとっての義理の伯父だ。夫婦で簡単な日本語が喋れるらしく私に日本語で話しかけてくれた。
伯父は私に結婚祝だと綺麗に包装された小さな箱をくれた。私は面倒なことが嫌いなのでこういうものはさっさと受け取り、礼を言う。
女にも何か渡している袋に入っていて、どうやら中身はお茶のようだ。女は申し訳ないと断固として受け取りを拒否している。私はお茶くらいなのだからもうそこら辺で受け取れよと見ていたが、そのうちに泣きだし、伯父伯母にしっかりとだきしめられ、私たちはお前の親みたいなものなんだからねと慰められている。私はぽかんと蚊帳の外だ。
女はやっと結婚祝いを受けとった。伯父伯母は帰っていった。
女にどうしたのか聞くと、結婚祝いの中身はお茶ではなく”金”だった。台湾ではそいう習慣があるらしい。普通なら結婚式をあげるのでそれでトントンという計算なのだが、私たちはその結婚式を挙げないので受け取るのは申し訳ないと、押し問答になった末に感極まって泣いたらしい。面倒くさい。
ちなみに私へのプレントは音楽と言っていたので、何かと思っていたら1TBの小型HDDだった。中に170Gの音楽がたっぷり詰め込まれていた。イイね!HDDと金はいくらあっても困らない。そのうえUSB3.0と更に気がきいてやがる。

2013年2月27日水曜日

明日が台湾の祝日なので夜は病院に詰める事になった。昼は家庭菜園の世話とかしてまったりと過ごす。
夜、病院へ。
この病院はデカイ。恐らく敷地は東京ドーム何個分とかだろう、変な出口から出ると何処にいるかわからなくなる。
親父さんの頬はさらにゲッソリと痩けていた。それに反比例して腹は膨張している。水と腫瘍がたっぷりつまっているのだ。たっぷりと。親父さんは今はただ苦しむだけに生きてるような物だ。
マッサージをしてやると感触は、骨とささやかな贅肉だけ。筋肉はもうない。私の死んだ二人の祖父も死ぬ前はこんな体だった。
今ではしゃべるのも苦痛らしく、ほとんどジェスチャーで意思を伝える。
女は病室に来るとずっと食べるように親父さんに言うが、親父さんは全く食べないし、薬も半分くらいしか飲まない。
頑なに食べ物を拒否する姿を見て私は親父さんはカタを付けようとしているのだと思った。

2013年2月26日火曜日

朝起きて女が仕事に行く。家庭菜園の世話をさらっと済ませてコンビニへ。朝飯だ。カップ麺に唐揚げをぶち込んでおにぎりを喰う。
家に帰ると就職会社から連絡。車の運転の免許がどうのこうの。面接とかは来週になるだろう。
日本でHDDの放り込んだ映画を観る。『青い塩』―テンポが悪い、これは役者が下手だったら話にならなかっただろう。
いつの間にか昼。近所のバイキング形式の飯屋でテイクアウト。今日も60元。
女の実家には50インチのテレビがあるが、私がここに来る今の今までその真価を発揮したことはない。今までは親父さんとお母さんが仏教団体が作ってるしょうもないホームドラマを観るのにしか使ってない。ドラマの内容は、働き者の七三分けの兄弟の日常だ、何故か異常にキレやすい女を女房にしており、毎回キレた女房を家族でなだめすかすという内容だった。面白くもなんともないのだが二人は大爆笑してみていた。最後には兄がいきなり血液癌になり死ぬ。その展開を見ていた末期がんの親父さんが私に「これが人生だよ」と言った。私は確か「ああ」とだけ返した。
そんな状況なので50インチのハイビジョンが生かされたことは全くない。何で50インチを買ったのかも疑問だ。
だが私が来たからには安心したまえ、その真価を遺憾なく発揮することができる。私はPS3を繋げた。
午後、まるまる映画を見て過ごす。
夜、ベッドで女と話す。私はこのマンションが自分の家のような感じがしないから落ち着かないというような事を話した。その話が発展しこれからの話になる。お母さんがどっちに住むかだ。
元々の予定は兄夫婦と同じマンションに買った新しい部屋に二人で住む予定だったが、親父さんはもうそこに住むことはない。兄貴はその部屋を人に貸すつもりだ。
となると、兄夫婦のマンションか、古巣のこのマンションに住むかどっちかになるのだが、兄夫婦のマンションは孫の面倒を見なきゃいけないので疲れると言っているのでこっちに戻ってくるかもしれないという。最悪の事態である。長男の所で預かってよというのが私の本音だ。
私の本当の希望は引越し、だ。だがそれもお母さんに強固に反対されるのはわかってる。金がないのだからタダのここに住んで貯金しろというわけだ。
だがせめて自分の部屋くらいは欲しいもんだ。今一室をあてがわれて入るが、荷物を整理しておているだけだ。
しかも整理の仕方にも文句を付けられる。前スーツケースを物入れ代わりにベッドの脇においておいたらお母さんがしまえと文句を言っていると女に片付けさせられた。革製のアンティークな感じのスーツケースなので上手く使えば部屋のインテリアにもなる。のでそういう使い方をしてるのだが、理解はされない。されない。
なので私は居場所を失ってしまったのだ。また。

2013年2月25日月曜日

月曜日。だが女は免許をの試験で休み。私も毎日が日曜日。
朝、女は試験に出かけて行く。私は読書しなながら眠ったようだ。
昼過ぎに女が合格して帰ってくる。女と家庭菜園の世話。虫だらけだとキレる女、私は適当にやってるから当然だ。親父さんとお母さんは日に三度は水をやって虫もとっていたらしい。初めて知った。私は朝一回だけだった。
これから一日五回虫をとれと言われる。わかったと答えたが、いっその事全部喰われちまったほうが面倒が無くていい。
午後に就職会社と連絡。日系企業の物流会社二社に履歴書の送ってくれるという。

2013年2月24日日曜日

朝、病室―お母さんと入れ替わりで、女と家に帰る。
女はすぐに自動車学校に行く。私は家庭菜園の世話。
女が帰ってくると、飯。明日は免許の試験らしくネットでずっと模擬試験をやっている。
台湾の免許とるときに路上教習がない。来年からその制度が変わるらしく女は駆け込みで免許をとる。
今日は最後の教習で教官から、これからも会いたいとか色々誘われたと言ってた。教習中もずっとドライブに行こうとか誘われていたと聞いていた。日本ならセクハラであっという間に首になりそうだが、はやり緩い。

2013年2月23日土曜日

土曜だが女は旧正月の休暇の関係で出勤。
私は一人で留守番。外で飯を買ってきて喰う。喰う。これは女に禁止されている行為。知ったことではないが。
夜女が帰ってくる。今日はまた病院に行く予定。出発前に親戚、父方の叔母から電話だ。女を病院まで車で送ってくれるという。
女は父方の親戚にはまだ私のことは話してないので、私はバスで一人で病院に行けという。父方の親戚はうるさ型だから、らしい。
バスで一時間、病院につく。親父さんは今日からちゃんとした病室に入院している。前の救急冒頭よりはずっとマシだが、隣では爺さんずっと騒いでいる。(あとで聞いたら爺さんが勝手に点滴を引きぬいて血まみれになったりと大変だったらしい)
2日程度しかたっていなかったが親父さんの頬は痩けていた。腹に出来た腫瘍が広がり飯を喰うのも水を飲むのも苦痛だ。飯も2日に一回程度お粥を何とか食べるだけ、このまま行けば飯を食えなくなってチューブだらけになるのもそう遠くはないだろう。
Kindleで警官の血を読みながら朝を待つ。

2013年2月22日金曜日

―引き続き病院。
iPodで音楽を聞きながらKindleで横山秀夫の64を読む。読む。ド深夜一人末期がんの義父が眠るベッドの脇で泣く。泣く。64に感動して。
朝がた抜け出し、コンビニで激辛おでんを喰う。
10時くらいにお母さんが交代に来て、私はバスに乗って帰った。
暫く休んでから履歴書に中国語訳をつけて就職会社に送る。

2013年2月21日木曜日

連絡した転職会社から履歴書の職歴の欄に中国語訳をつけて送れとメールが来る。
女に手伝わせるほうが良いと判断し取り敢えず女が帰って来てからやることにして、昼間はのんびり家事をして過ごす。
女が帰ってくると、メシ喰ったら親父さんが入院した病院へ行って朝まで親父さんに付きそうと私に言った、私もだ。
親父さんは二日前に入院していた。
女とタクシーで、林口という台北の郊外の病院へ移動。
また病室が空いてないので親父さんは緊急病棟の狭いベッドに寝かされいてた。だだっ広い部屋に100人は寝かされている。隣とは血のついたカーテンで遮られてるだけだ。
親父さんはまたさらに痩せていた。今年60歳なのだがもう75歳くらいに見える。起き上がるのに人の手を借りねばならないくらい弱っている。
左隣では妊婦が涙を流しながら荒い息でうめき声を上げている。右隣では爺さんが一晩中呼吸器を外そううとして看護師ともめている。遠くからも呻き声が聞こえてくる。わけの分からない機械のビープ音に生命維持装置のビープ音。とてもじゃないが落ち着いて寝られる状態じゃない。
親父さんは眠ったり起きたり。ときどきトイレに行来たがるので連れて行った。

2013年2月20日水曜日

すっかりのんびりとした生活が馴染んでしまい、今日からバリバリ就職活動をしなければならないのだが、ローテンションの朝。
朝、女を送り出し、家庭菜園の水やり。何と
親父さんとお母さんが引っ越してからは私の仕事だ。
その家庭菜園のプチトマトが枯れかけているとお母さんが言っていたと女から文句を言われた。今日見たら葉っぱが萎れていた。
毎日水を上げているのだから普通は気がつくのだろうが、全く興味が無いので、気が付かなかった。
なんとなーく映画を見始めて、気がついたら昼。近所の自助餐と呼ばれているバイキング形式の飯屋でテイクアウト。そこそこ取ったが60元だったので日本なら200円もしない。
メシを喰って日記を書きまくる。もう夕方。
やばい、何もしていない。結婚してから連絡するということになっていた転職会社にメールを送る。
女が帰ってくるのに合わせてメシを作る。返ってきた女と飯を喰う。
女が旧正月が開けたのでお参りに行くというので、原付の後ろに女を乗せて、近所の廟へ行った。

2013年2月19日火曜日

女を午後から仕事休ませて移民署へ行く。
配偶者さえ連れて行けば、手続きは進む。申請をすぐに終わった。3月1日に発行されるのでまたこなければならない。
結局、担当者に無罪証明書と戸籍謄本は結婚ビザの場合は不要と言われた。無罪証明書の為に二週間以上日本に滞在したのに、やれやれだ。しかも何処で聞いても必要書類の中に入っていたのに。これが台湾のお役所仕事だ。
家に帰り飯を食うと女が兄貴のマンションまで行って親父さんを見舞おうという、車で。
私はなんとかペーパードライバーを卒業したが、いきなり台湾で知らない道を夜走らせるのは自信がなかった。右側通行にもちょっと慣れてからと思っていたが、女は行く気マンマンだ。
結局私もなんとかなるだろうとハンドルを握った。左ハンドルに右側通行でボロ車に台湾の荒い交通事情。だが何とかなった。というよりついていたという方が正解だろう。
とにかく兄貴のマンションについた。親父さんは少し調子がいいようでメシを喰っていた。昨日と一昨日は一日で一杯の粥を喰うのが精一杯だったが、今日は椀に盛られたメシと野菜を喰っている。
ついでに兄夫婦の生まれたばかりの赤ん坊に初対面。
私が赤ん坊を見ていると親父さんが、お前も早く50000元くらい(15万円)の給料をもらえるようなったら子供を作れと私に言った。私は日本でその倍以上の金額の給料を手取りでもらっていたと心の中で毒づいた。
この死にかけのボケ老人は私を半人前扱いしたがるが、台湾に来たから私は半人前になってしまった事実を理解していないのだろうか?
さらに赤ん坊に何かプレゼントは買ってやったのかと続けたので、ちょっとムッときた。私はすでに赤ん坊の服を日本で買って手渡していた。
直ぐに姉さんが貰ったし、お父さんも見たじゃないとフォローしてくれたが、親父さんは何も言わなかった。
私は相当気が悪くなったので、帰るとき結構冷淡で女が後で文句を言っていたが、ほとんど無視した。
帰りは行きよりも相当慣れたので、スムーズに帰れた。車庫までは。
車庫は相当狭い。元々車の細かい運転が苦手な上に初めての左ハンドルで気がついたら思いっきり左のドアをシャッターにこすっていた。
その後悪戦苦闘しどう動いていいかわからず、三度ほどひどくこすった所で、その音を聞きつけた近所のオッサンが助けにやって来た。
オッサンは俺がヤッてやろうと私と運転を変わりさっと車庫入れしてくれた。私はあぁこんな簡単なのかと思ったほど。
さらにオッサンはコスってひん曲がったシャッターのレールをペンチを持ってきて直してくれた。
あまりにも親切なので女に知り合いかと聞くと、全然知らない人と言っていた。

2013年2月18日月曜日

今日は朝から面接。日本の工事会社の支店だ。
仕事内容にもあまり興味がなく、家から結構遠いのであまり乗り気じゃない。が行かねば。
二時間近く掛けてその会社へ。マンションの一室に有るらしい。
時間まで少し外で待ち、中へ。小さい事務所で、5,6人くらいしか居ない。若い日本人の男が私を応接室まで案内してくれた。
少し待たされ面接官が応接室に入ってきた。面接官は履歴書を見せてくれと言った。私は転職会社から行ってるのでわざわざ持ってきてないと答えた。セブン-イレブンに印刷しに行くのがめんどくさかったのだ。乗り気じゃなかったのだ。
面接官は何もなしですかと、少し驚いたようで、私の履歴書を印刷しにまた部屋を出て行った。
私はさっきのリアクションをみて、もう帰ろうかと思ったがそれは流石にあれなので、待った。
面接官が帰ってきて面接開始。面接自体は上手くいったようだ。面接中、何度か採用したら来る気はあるのかと聞かれた。一応あるとは答えたが。
しかし給料は低いが、バリバリ働らいてくれて感じで、しかも仕事内容に興味もないのでやっていく気がない。
家に帰り女と相談したが、取り敢えずここはスルーということになった。
移民署に行く。幾つかあり住んでいる場所によって管轄が違う。私は新北市に住んでいるので中和というところまで行かねばならない。
電車とバスを乗り継けば行ける所だ。
新北の移民署は国防なんとか大学の敷地内という変な場所にあり、多少迷ったが無事についた。
新北市は台北の郊外を一挙にまとめた市なので(昔は台北県といわれていた)、地元の人間が多い。移民署もベトナム人の嫁さんもらった人たちが多いような印象だ。
移民署はそこそこ混んでいたが、待ち時間はほとんどなく私の番になった。書類をサッと見て担当者は一言、嫁さん連れてこないとダメだよ。

2013年2月17日日曜日

目覚めると女と私。そういえば昨日の夜から二人での新婚生活が始まったのだ。
明日、移民署へ行って居留証と滞在ビザの最後の申請をする。必要な書類は大阪で言われたのはパスポートと台湾の機関で承認された無罪証明書と日本の戸籍謄本。
女が私は一緒に行かなくていいの?と聞く、大阪で何も言われたなかったので必要ないだろうと答えた。
女は外交部で一緒に行かなくてはならないと言われたと言う。週末で休みなので確認のしようもないし、サイトを調べたが何も書いてない。
安牌で一緒に行くかと聞いたが、仕事を休まなければならないので、私が一人で行くことになった。


2013年2月16日土曜日

朝から親父さんの引越しの準備と掃除を手伝う。
合間に親戚が親父さんの様子を見にやってくる。私の存在は親戚には秘密である。結婚式を上げてない結婚は”恥”らしい。
親戚が来るたびに私は屋上や自室に軟禁される。
今日は千客万来。屋上でずっとKindleで読書だ。天気はいい。
親戚が帰ったのでを掃除していると、どうやらまた来たようだ。私は女にKindleを取ってくるように頼んで待っていたら、女が手ぶらでやってきた。親父さんが私を呼んでいるという。
やっと諦めたようだ。
来ていたのは母方の叔父さん一家。挨拶だけしたが、会話が台湾語がほとんどなので、何を言ってるかはわからない。
居てもしょうが無いので、お茶を淹れるフリをして脱出。
親戚が帰ってしまうと、兄貴が迎えに来た。
親父さんが出発する前に戸締りをしっかりしろとか色々言い残していった。そんな事心配している場合じゃないだろうがと思いながら私は見送った。

2013年2月15日金曜日

朝起きるとまたホテルのベッド、両脇には両親。
荷造りしが終わり、親父とコーヒーを飲んでいると女がやって来た。最後にそこそこ高級な中華に連れて行く。そこそこの金をとるだけあって両親が本当に美味そうに喰っている。
メシが終わり、両親を空港まで送る。親父は新しい娘との別れが少し名残惜しいようだったが、涙を見せず帰って行った。
私は久しぶりに女の実家に戻った。居間には病院で出来ることはないと追いだされた親父さん。調子は大分悪そうだ。
今日の夜から兄貴のマンションに移るという。親父さんは少し前に兄夫婦と同じマンションに部屋を買っていた。まだ掃除が済んでいないので取り敢えずは兄夫婦の部屋に住むらしい。
夜、兄貴が迎えに来たが調子が悪すぎるので、引越しは延期。先に荷物だけ運ぶ事になり、私も荷物を運ぶのを手伝う。
荷物を運んで戻ってきた私に、親父さんがこのマンションは苦労して買ったので、あとの面倒をしっかり頼むと言った。
まぁようは女と私にこのマンションをくれるという事なんだが、ここらへんが私とこの家族の間でちょっとした”行き違い”のようなものがあるのだ。
親父さんは、日本からわざわざ呼び寄せて悪いとは思っているがこんな良いマンション上げるんだから良いだろう?車と原付もやるよ!だからウンタラカンタラと思っている。
だが私はこのマンションを全然気に入っていない。タダで有る以外なにも気に入っていない。辺鄙な所にあるし、エレベーターもないし、浴槽もない、風呂の水の出は悪しい、温度調整すらもともにできない。出来れば早く引っ越したい。
おまけのモーターサイクルについては、私は元々自分で運転するのが嫌いなので自転車くらいにしか乗らないし、ボロボロの中古車と原付をくれるとか言われても、台湾の車税とか保険料とかどうなん?厄介事のリストに項目が追加されたくらいの思いしかない。
やれやれだ。
取り敢えず親父さんとお母さんが寝てしまったので、私も寝るかと思ったら、女が今日から一緒の部屋で寝るという。今まで別々の部屋で寝ていたのだが。
いきなりどうしてと聞いたら、お母さんから布団が足りない、ベッドに一枚ずつしかない、と言われたという。
私はこの戦国時代のような言葉にめまいを覚えて、女の部屋で寝た。

2013年2月14日木曜日

目覚めるとホテルのベッド。両脇には両親。女にホテルに泊まるように指示され、両親の部屋に泊まったのだ。
今日は両親の観光あんないだ。女も合流し、台湾で一番でかい故宮博物院へ。
女がずっと中国人だらけでうるさいと文句を言っている。来る途中のタクシーでも運転手が最近博物館に中国人が増えてうるさくなったと文句を言っていた。
台湾人の中国人への一般的なイメージはモラルのない田舎者だ。
すべてがそうではないが騒がしい博物館にいるとそういうイメージだけが広がっていくのも分かる。
博物館の後は台北で一番古い宮に行ってお参り。あとはひたすら土産探し。両親よりも女が必死になっていた。

2013年2月13日水曜日

女と朝ホテルへ両親を迎えに行く。親父さんが病室に入れたら会う事になる。恐らく午後か夕方くらいと連絡があったので、女がそれまで飯喰って両親を猫空にでもつれてってお茶を飲もうと提案。
取り敢えずメシは日本人観光客のど定番・鼎泰豊に連れて行き、小籠包を喰わす。
それから猫空に向かう途中に、電話。病室が移れるかどうか分からないので体調がまだいいうちに来いという。
コロコロ変わりやがってと私は多少苛ついていたが、両親に異存がないので、病院へ向かう。
病院は台大病院。台湾で一番有名な病院。
私たちはロビーを抜けて救急病棟へ入る。廊下中にベッドが置かれヒトが寝ている。正月で医者の数も少なくこんな状態らしい。
うんざりするような病人と怪我人満載の廊下をずっと行くと、開けたスペースに5つほどベッドが置かれ、一番はじに親父さんがいた。
だいぶ体調は悪そうだ。私が日本に行ってからドンドン悪くなったと聞いていたが、思ったよりも悪いようだ。少し痩せて、朦朧とした喋り方になっている。
私は親父さんとお母さんに両親を紹介し、それからしばらく、こんなトコロで申し訳ないとか、挨拶が遅れて申し訳ないとかなどの社交辞令を通訳し続けた。何とも間が持たないので、私は直ぐにでも引き上げたくなった。
女に親父さんも疲れるだろうから引き上げようというと、もうちょっと、返事が返ってきた。
いきなり親父さんが両手を大きく広げた。何の意味かわからない。
女が近くによると、女の手と私の手をとって合わせて、親父さんは何か言った。何を言ったか忘れてしまった。忘れた。
私は親父さんにしっかりと面倒を見るから大丈夫だと答えた。親父さんがいつの間にか泣いている。お母さんも泣いている。女も私の隣で鳴き出した。
私は女に泣かれると弱いので私も涙ぐんだ。そして思った。私は果たして女と本当に結婚すべきだったのかと。女に本当にふさわしいのは、100人が100人あいつは本当に良い奴だ、と答えるような男だろう。
私は、そんな男ではない。決して。この結婚はここにいる6人にとって不幸なのことかもしれないとふと思った。が、人生に不幸はつきものじゃないか。
気がついたら母親も涙ぐんでいた。この会合のクライマックスを迎えた所でお開きだ。私の親父を見たが涙ぐんでもいなかった。
思えば親父が泣いたところを見たことがない。私は昔の男は偉いもんだと感心しながら病院を出た。
病院の出口まで送ってくれたお母さんが両手を振っている。この涙の会合の最後に両手を振ってというのは不似合いだが、お母さんの最高のアレなんだろう。

2013年2月12日火曜日

朝、メシを喰いにコンビニでも行こうと兄貴の家を出る。鍵は置いてある所は前に泊まって知っていたので鍵を持ってでた。
台湾の家庭の扉は閉めると自動的に錠がかかる。ホテルと同じだ。扉をしめてふと鍵束の鍵を合わえてみたがどれも合わない。ここで気がつく、私が持ってるのは実家のマンションの鍵だ。
昨日の夜、兄貴もメシはコンビニが近くにあるからとか行っていたので鍵は置いてあると思い込んでいたが、どうやらこの部屋の鍵は二人が全部持っているようだ。
しょうが無いので諦めてコンビニ行く。セブン-イレブンの激辛おでんで朝飯を済まし、オートロックのマンションの入り口で中に入る機会を伺う。
大分時間がかかったがマンションに入るとエレベーターで兄貴と再会。兄貴も私に鍵を渡し忘れたことを気がついて私を探していたらしい。
兄貴の車で空港へ。その道すがら兄貴が話し始めた。なぜ女の両親が私を台湾に呼び寄せたかを。
女が生まれた時、足が曲がっているという障害がありまともに歩けなかった。―その話は私も聞いていた。施設に入れるかどうか迷うくらいだったらしいが、両親が頑張って手術を受けさせ、普通になったという。女はそのことを深く感謝しており、私にその話をしたとき泣いていた。
ともかくその事を女の両親は深く思っており、そばに置いて面倒を見なければならないと心のなかで思っている。
私はその話を聞いて、理解できるような、理解できないような微妙な感じだったが、感情優先で行動するきらいが女の両親はあるので、納得はした。
両親を空港で拾いホテルに送る。まだチェックインできないので荷物だけカウンターに預け、喫茶店で、女を待つ。30分後くらいに女が来た。
女と両親は2年ぶりくらいの再会だ。女は親父さんの状況を両親に説明した。体調が大分悪いが朝は調子が良いので、明日の朝女の実家で会えるようにすると。
取り敢えず今日はホテルの近所の夜市でメシでも食おうということになる。
ホテルから一番近くてデカイ夜市にタクシーで向かう。
台湾は旧正月真っ只中。9日間の休暇でそこら中ヒトだらけ。夜市も酷い混雑で私の両親は直ぐに参ったようだ。
ちょっと食べ歩いて、適当な店で炒飯やら麺やら何やらを喰ったら、もうどうでもよさそうなのでホテルに帰る。この時に女と両親の間でどっちが勘定をもつかで激しい鍔迫り合いが度々起こる。
台湾人は客が来たら全ての金を出すのが常識だ。更に女にはわざわざ台湾に来てもらったという負い目が有る。なのでとにかく金をだしたい。両親は可愛い嫁に金ださせるわけには行かないと金を出したいと相当面倒な状態だ。
私は女に私の両親が恥をかくからと説得し両親が出した金を女のカバンにねじ込み、取り敢えずは解決した。
ホテルに帰ると、女は私にホテルのソファーで寝泊まりして両親の面倒を見ろと言って帰っていった。
それから女から電話があった。親父さん入院することになった、でも部屋がなく救急病棟の廊下に寝ている状態だという、明日病室が開く予定なのでその時に会えるようにすると。で両親がいないので実家で寝ろという。
私が帰る理由が意味の分からないものだったので、一体全体どういう意味だと私は抗議も込めて聞いたが、女の答えはつべこべ言うな、もう迎えに向かっている、あと五分でつく。
私は両親にやっぱり女の実家で寝ると言い、ホテルを出た。
女と兄貴が車で迎えに来た、台北市の病院に入院させそのついでに私を拾いに来たのだ。
家にかえり、女と一緒に眠る。多分理由はこれだろうと納得した。

2013年2月11日月曜日

夕方の飛行機で私は日本を発った。発った。
空席が目立つ飛行機は台湾に舞い降りた。舞い降りた。
女から親戚がいっぱい来てるわ、親父さんの様態が大分悪いので実家に帰らず、兄貴の家に泊めてもらえと言われていたので、兄貴の家に泊めてもらう。
兄夫婦はまだ産後院というやつに泊まっているので私は一人で気楽に寝れるわけだ。兄貴に近くの駅まで迎えに来てもらう。
明日、私の両親が台湾にやって来るのだが、空港に迎えの車をだしてくれるという。兄貴の家はあ女の実家と違って生活感があるので泊まりやすい。
兄貴が産後院に行った後は、50インチのテレビでPS3で眠くなるまで遊びまくる。

2013年2月10日日曜日

ぶっ壊れたPS3を買い換えるかどうかずっと悩んでいたが、昨日買うと決心した。PS3の本体に取り付けられる外部モニターをヨドバシのネットで買ったので、賽は投げられルビコンは渡った状態だ。
観ときたかった映画を観るついでに名駅前あたりで買うことにする。
本当は要らなかったのだが、Blu-ray再生機がどうしても必要だということになった。
PCで観れるようにBlu-rayドライブを買ったのだが、再生ソフトがクソばかりだ。昨日まで見れてたのにいきなり対応していないと表示され再生できなくなるとか、他の安い再生ソフト買っても何故かBlu-rayのメニュー画面が表示できないとか、とにかく問題が多く、再生ソフトだけで1万くらいすでに使っている。これからもこの問題に悩まされるならBlu-ray再生できるデッキを買ったほうが効率がいい。なら選択肢はゲームも出来るPS3以外には無い。無い。
駅前でアウトローとかLooperを見てPS3を買って家に帰る。
家に帰り荷物をまとめる。PS3は手持ち荷物のカバンに突っ込む。OK準備完了だ。

2013年2月9日土曜日

もう後は台湾に行くのを待つだけだ。チケットは11日。
TSUTAYAでDVDを借りてきてHDに放り込む。これで台湾で退屈することはないだろう。しばらくは。

2013年2月8日金曜日

目覚めると大阪のネットカフェ。いびきが聞こえる。またしばらく眠る。
昨日の夜はたっぷりと飲んで放出して遊んだ。女が聞けば絶句する金額が飛んでいったが、常識の範囲内だ。
女の一家はこういった遊びとは全く無縁だ。親父さんも飲む打つ買うとは無縁、趣味は家庭菜園に散歩くらい。つっても中国に一人で長いこといたのでその間遊びまくっていても不思議はないが、本当のところどうだかは知らない。
こんな風に金を使うくらいなら株でも買うか定期預金でもするのがこの一家だ。しかし親父さんはもう使えない貯金と幾つかのマンションを残して末期がんで死にかけている。
可愛い子供の為にある程度の財産を残して死ねるのだから、親父さんは満足というかも知れないが、もう少し楽しんでも良かったのではないだろうか。
その可愛い子供が結婚相手に選んだの私のようなクズなのだから、正直私は親父さんに同情する。
昨日の夜、私が遊んだ金は無駄だろうが、この世の中には必要なムダが有るのだ。昨日の晩の思い出で私はまたヤッていけるのだ。
そんな事と昨日の晩使った金の事を考えていると、ネットカフェの退室時間を過ぎていた。
私はネットカフェを出て難波駅の近くまで歩いた。
偶然に自由軒を目にしたので、入る。カレーを喰い、実家の土産に持ち帰り用のカレーを買った。
インディアンカレーというやつだ。昔、信太山駐屯地にいた時によく喫茶店で唐揚げ入りのインディアンカレーのシブツを喰っていたのを思い出した。あそこはメシがまずかったからシブツばかり喰っていた。
カレーを食い終わると大分疲れたので、近鉄の名古屋行きの特急に乗った。

2013年2月7日木曜日

朝早く家を出る。今日はビザ申請の日だ。
台湾の大使館に当たる施設は東京と大阪にしかないので大阪まで行かねばならない、しかも朝11時半までに。さらに即日発行の料金を払うことでやっと今日ビザがもらえる。普通は翌日発行だ。
すべてが順調にいけば十分に間に合う。順調ならば。五分や十分でもたついて新幹線に乗り遅れば間に合わない。
朝九時に愛知県県警で無罪証明書を受け取り、タクシーに飛び乗り、新幹線に駆け込む。予想より一本早いのに乗れる。
新大阪からJRで大阪駅まで移動しタクシーに乗る。到着は10時半。完璧だ。
時事上の領事館やら大使館という面倒な説明のいる台湾の施設にはいる。ズラッと項目ごとに一個ずつの窓口、番号札すら無い。
窓口の台湾人のオバサンに結婚のビザの申請だと伝えて必要書類を渡す。顔写真、無罪証明書、日本の戸籍謄本二通、健康診断、ネット申請の画面をプリントアウトしたもの。
するとオバサンがネットの申請のプリントアウトした紙を観てまだ完了してないから、ネカフェで完了させてプリントアウトしてこいという。
地図を貰ってビルを出る、しかし地図が雑で全然わからない。今の時間は11時。三十分後に戻らなければダメと言われてもおかしくはない。
WiMAXのルーターを持ってきていたので一日契約し、ネット申請を終わらせる。あとはプリントアウトだが近くにファミマとローソンしか無い。セブン-イレブンがあればJEPGでもプリントアウトできるが。
受け付け番号があれば大丈夫だと思い、しょうが無いので戻り画面を直接見せて受付させる。
オバサンは私に言うとおりにやれば、早く終わるからとぶっきらぼうに私言い、てきぱきと雑に指示を始めた。この申込書をかけ、あっちで金を払えどうのこうの。
サイトには即日発行には追加料金が必要と書いてあったが、配偶者のビザは追加料金無しで即日発行らしい。前日にここに電話してファックスしてもらった資料には即日発行の場合は受付が3時までと書いてあったが受付のオバサンはダメだと言っている。
これが台湾のお役所仕事だ。全てがあてにならない。唯一の答えはその時の窓口担当者の言葉。事前にサイトをどれだけ詳細に調べうが、電話しようがひっくり返される。
デタラメだが良い奴ってのが台湾のいいところ。窓口のオバサンも愛想は大してないがキッチリ、さっさと処理して、二三時間後に来いと私を追い出した。
近所でメシを喰い時間を潰し戻る。時間通りに行くと珍しく、ビザはできていた。パスポートに私の写真入りのビザが貼り付けられている。といってもこいつは入国用の暫定版。台湾に入国して15日以内に移民局にいって手続をしなければならない。
ともかく終わった。ただの事務処理だったが、キチキチの綱渡りの予定だったのでそれなりの達成感はある。
さぁ帰るかと思った。が、ここは大阪だ。下らん事務処理だけして帰るバカがどこにいる?
取り敢えず難波まで移動する。難波を歩き回りながら考えた。一晩遊ぶくらいの金はある。これから台湾に移ってしまえば遊ぶ機会はもう無いだろう。無いだろう。
遊ばない理由を私の頭脳は思いつかなかった。フラフラと歩きまわり遊びまくる、と決意した頃にはちょうど晩飯どきだった。
取り敢えず景気付けにふと目にしたすっぽん料理と書いてあった居酒屋に入る。表に出ていたメニューにはすっぽんコース8000円とあった。決して高くはない。
まだ時間が早いので店に誰もいない。私はカウンターに案内され、若く男前の板長にすっぽんコースを注文した。
8000円というお手頃価格なのに接客態度は高級店だった。板長はカウンターに座った私に料理の説明やら何やら色々話しけてくれた。客は私一人だったがもうすぐ来るらしい宴会の準備をしながらなのでまるっきり暇というわけではない。
メインのすっぽん鍋が出てくると仲居さんがひとり私の隣に付き、鍋に具材を入れるのもそれを取り皿にとってくれるのも全てやってくれた。
私が最初のビールを飲み干し飲み物のメニューを見ていると、飲み物はビール以外だいたい1000円くらい。一番高いのはヒレ酒の1200円。
さてどうするかと私は迷った。どうせなら1200円いってしまうかと、思った所で板長が私に試したいメニューがあるがどうですか?と声をかけてきた。
板長はハイボールなのですがと続けた。恐らくメニューを見ながら迷ってる私を見て助け舟をだしてくれたのだろう。目の前に座ってるとはいえよく客を観てると感心した。迷ったといっても一分かそこらだろう。
私はありがたくハイボールを注文した。料理が美味いのでハイボールもいつの間にかなくなっていた。
これだけ料理も旨くて、サービスも最高なら多少金を落した所で全く惜しくない。ヒレ酒を頼もうと思った時に、板長が結婚祝いにヒレ酒をごちそうさせてくださいと言った。私は快くヒレ酒をご馳走になり、更に二三杯は継ぎ足せるので遠慮なくの言葉に甘え二杯目を飲みながら、本当は80000円じゃないのかとあまりのサービスの良さに訝しんだ。が、80000円でも惜しくないと二杯目を飲み干し勘定をしてもらった。
値段は8000円プラスビール代一杯のみ。板長がなぜ初めて来た旅行者の私にこんなに良くしてくれるのかさっぱり分からないが、これが本当のサービスなのだと私は思った。
バイトの店員が形だけ客に膝をついて、喜んで!!威勢よくと絶叫するのなどクソだ。
私は出口まで送ってくれた板長に必ず妻をつれてまた来ると約束し店を出た。
出だしは好調。夜は始まった。

2013年2月6日水曜日

夕方、区役所で戸籍謄本を二通受け取る。あと明日の朝警察で無罪証明書を受け取ればすべての書類が揃う。
夜は従兄弟たちを集めてメシ。前会えなかった従兄弟も集まって合計五人で近況報告。最近全然集まってなかったので兄弟同士でもお互いの職業を知らない始末。
その後は飲みに出かける、三人が下戸なので運転手には不自由しない。
今日はじめて実家の近くにキャバクラがあるのを知る。レベルはそこそこか。一族でキャバクラにくるのは珍しいと言われた。

2013年2月5日火曜日

朝区役所が開くと母が知り合いに電話し戸籍謄本が明日の夕方に手に入ることになった。
何かNPO法人をやってるのでその知り合いらしかった。
何にしろなんとかスケジュール通りだ。

2013年2月4日月曜日

久しぶりにやることが有る日。
区役所に行き日本側の結婚手続きを行う。本当は直ぐに行きたかったのだが、手続きに必要な女のパスポートが期限切れ。先週の金曜日の夕方にやっと私の元にPDFがメールで届いたのだ。
区役所に必要書類を持って行き番号札をとった所で気がついた。日本側にも婚姻届を出すということは女のサインやら何やら必要じゃないのかと。もしかしたら面倒かもと思った所で、呼ばれた。
台湾で結婚した何やらと担当者に伝えて、必要と言われていた書類を渡す。―結婚証明書(台湾発行)、戸籍謄本(台湾発行)、女のパスポートのコピー、台湾で発行された書類の翻訳文。
担当者は書類をチェックして、翻訳文は全文必要だと私に言った。私は必要な箇所を訳しただけだったので不足していたのだ。
心配していた婚姻届は私が一人で必要事項を記入すれば問題なく、女のサインも印鑑も、証人も不要と言われた。
私は一旦、家に戻り翻訳文を作り直し、婚姻届に必要事項を記入し区役所に戻り、再び番号札をとり、担当者に書類を渡す。
それから私は一時間以上待たされた。
やっと呼ばれると細かい修正をして―この修正には国籍を台湾から中国に、住所を中華民国から中国台湾省にといったものだった、もし女と来ていたら面倒だったろう。
修正が終わると手続きは完了した。私は直ぐに戸籍謄本が欲しいと伝えたが、一週間はかかると言われた。
戸籍謄本はビザの申請に必要だ。ビザ申請は三日後だ、待ってる余裕はない。担当者は奥に一回引っ込んで三日後にできると私に言った。
最悪ビザ申請は四日後の金曜日でも間に合うので私はそれを了承し家に帰った。
しかし台湾でさえ、結婚一秒後には戸籍謄本が出てきたので完全に予想外だった。
家に帰ると母が今日の首尾を聞くので戸籍謄本が出て来なかったと答えた。すると母は私が一緒に行けばよかったねぇと意外な答えが返ってきた。
どうやら知り合いが区役所の戸籍関係のとこの担当なので、明日電話してやるからまかせろと母は続けていった。

2013年2月3日日曜日

なんだか今日やっと気がついたのだが、母親がヒトの髪を染める商売をしてるらしい。

2013年2月2日土曜日

女から別れるとメールが来ていた。いつもの事だ。
電話は昨日の夜からずーと電源が切れている。
午後くらいに私もいい加減、めんどくさくなり家の電話を鳴らす。
女が出たので、この喧嘩を処理する。
夜、出かける。高校時代の友達と会う。高校時代は毎日のように遊んでいたメンバーだ。その時は7人くらいのメンバーだったが、今では連絡がついて集まるのは私を含めて三人だ。しかもそのうち一人は糖尿病で死にかけてる。
あれから18年経った。ということだ。
栄の中華料理屋で飲み、その後、コスプレバーに行く。要はコスプレガールズバーだ。そこでしょうもない話をしてると、人間変わらないとことは変わらない。

2013年2月1日金曜日

女が両親を引きあわせた時に、形だでけでも結納金やら何やらを何かをやったほうが良いと言い出す。あと台湾では結婚するときに金のアクセサリーを男から女に送る習慣があるらしくそれをやりたいと言い出す。
両親を引き合わせる予定は今月の13日の予定。時間がない。
私は正式な結婚式をいずれやるだろうからその時でいいだろうと答えた。
「じゃいつやるの?」女は言った。
「今年の年末か来年だろ」と私は答えた。
「それまでお父さんが持つと思うの?」私に聞いた。
私はそんなに悪いのかと驚いて聞いた。女は何でちゃんとわかってないのだと、キレる。
もちろん悪いのはわかっている。が、”とても悪い”と言うことしか聞かされていなかった。
女は直接、医者から聞いて”とても悪い”がどれほどのものなのか正確に把握しているが、私はどれほどか漠然としか把握していなかった。
とにかく女はブチ切れて電話を切り、出なくなったので私は眠った。

2013年1月31日木曜日

TSUTAYAでスターウォーズを全部借りてきて観る。
ふと幼稚園の頃の友達M君を思い出した。私は幼稚園の頃にスターウォーズに夢中だった。M君も夢中だった。
よくM君とスターウォーズの話をした。M君のお父さんはスターウォーズに詳しいのでM君は私にいろいろとスターウォーズの事を教えてくれた。
例えばストーム・トルーパーの中身は何のか?
それは当時私たちのような幼いスターウォーズ好きの子供にとって最大の疑問だった。説はいろいろあった、ロボットであるとか、人間であるとか、戦隊物の戦闘員的な存在であるとか。
M君は私にその答えをあっさりと教えてくれた。クローンだ、と。
クローンがなにか尋ねると、同じ人間がたくさん入っていると教えてくれた。私がクローンの意味を正確にしるのは何年後か後のことだが。
そして彼が教えてくれた最も重大なスターウォーズに関するエピソードは、オビ=ワンとダース・ベイダーは昔戦って、ダース・ベイダーはオビ=ワンに溶岩に突き落とされ、大怪我を負った、そして今のような姿になった、というものだった。
私はそれから約22年後、スターウォーズEP1を観て、ほとんどあっていたのに少し驚いた。突き落とされたというのは正確な表現ではないが、些細なことではないか。
そして今日ふとM君を思い出し、なぜM君のお父さんはここまでスターウォーズに詳しかったのかと疑問に思った。
今なら英語がある程度達者ならネットで情報を収集してれば、この程度の情報をえるのは容易い。
しかし30年前、ネットなんてもんは存在しなかった。一体全体どうやってM君のお父さんはスターウォーズの情報を得ていたのだろうか。

2013年1月30日水曜日

本格的に何もない一日。TSUTAYAから大量にDVDを借りてくる。
夜、女とSkypeで話す。日本に来る前にバタバタして聞いてなかったが、親父さんの病気の状況を聞く。
台湾でNo1の癌の専門医に手術はできないと言われたと、女は私に告げた。

2013年1月29日火曜日

今日はペーパードライバー講習の二日目。ちょっと変な感じのオッサンともお別れだ。永遠に。
また二時間半ほど運転する。普段運転しないので本当に疲れる。
取り敢えず、取り敢えず感覚は取り戻した。

2013年1月28日月曜日

この日本滞在中の間、90%の時間は待ち時間だ。
暇なのでペーパードライバー講習を受けることにした。台湾の親父さんがどうしても車を運転しろとうるさいので、しょうが無い。
近所でペーパードライバー講習をしてる会社を探すと数社見つかった。車を持ってきて出張してくれる会社を私は選び今日と明日、合計5時間の講習を受けることにした。
講習を担当する教官のオッサンはちょっと変わった感じだった。
二時間半ほど近所を運転する。何となく感覚を取り戻した所で講習は終わった。
マトモに運転するのは数年ぶりなのでひどく疲れた。

2013年1月27日日曜日

今日は妹の婚約者が私に挨拶に来る。正月に両親に挨拶は済ませたのだが、律儀にも私にも挨拶したいとわざわざやって来るのだ。
朝っぱらから母と妹は大掃除だ。妹はやけにピリピリしてやがる。
もう三十分で来るという頃に、父が狭い庭先でチェーンソーを振り回して庭の手入れしているのを観てキレる。
別にどうだっていいじゃないかと思うが。何にきをつかっているのか分からない。
後五分で来るといった所で妹が、私に婚約者の名前と年齢を告げた。私より一つ年下だ。苗字を聞く限り日本人の用だ。下の名前は言わなかったので男か女かはわからない。
しばらくするとやって来た。やって来た。男だ。
中肉中背、散髪したてと言った感じのさっぱりした短い髪、それなりに整ってヒトの良さそうな顔をしている。服装は小奇麗でカッターシャツにベスト。婚約者の実家に行くカジュアルな服装にこれ以外の選択肢はないと私は思った。
妹がにこやかに私に婚約者を紹介した。―彼をOと呼ぶことにする。
Oは一礼して自己紹介し、次に母に手土産を渡した。実にタドタドしい。が、それが私には好意的な印象を与えた。何度も心のなかで練習したという感じだった。
私は全くどんな人間が来るか予想をしていなかった。漠然と妹を嫁にするくらいだからもしかしたらそいつも頭がオカシイのかもしれない程度の事は思っていたが。
それが意外にも、マトモでイイ人の化身みたいな男を連れてきた。連れてきた。これはハッキリ行ってツボに入った。
私は爆笑したいのをこらえながら、一般的な話題を、探した。どうにか笑わずにOが何の仕事をしているか聞いてみた。
すると薬のネット販売の会社に務めているというので、ネット販売が解禁されて良かったですねと返すと、Oはネット販売の状況について語りはじめた。
仕事の話だけはタドタドしさは消え、立て板に水。営業的な事をしてんだろう。
それから30分くらい、話題もつきこの会談は終わった。
妹とOはこれから一緒に出かけると家をでていった。妹は出かける直前に私にありがとうと言った。妹から礼をいわれたのは何年ぶりか。
本当は私ももっと話をしようと思っていたが、一瞬でも隙を見せれば爆笑の渦に落ちてしまうので、会話はあまり続かなかった。
二人が出て行った後、母親が私がまあまあちゃんと大人の対応をしていたのに驚いたといっていた。
私は二人が出て行ってから思う存分笑った。

2013年1月26日土曜日

私が結婚した情報を親戚にばら撒いとくかと思い立ち、従兄弟にメール。結婚して帰ってきているので、来い。午後にこちらに来ると返信があった。
私には五人の従兄弟がいる。
従兄弟たちとは最大でも5歳程度しか離れていないので、仲が良い。私が帰ってきた時は大体皆で集まる。
急だったが、そのうち二人の従兄弟が私の家を訪れた。近況を報告し合い、私が帰る前に従兄弟全員で集まることを決めた。

2013年1月25日金曜日

久しぶりに何もない一日。
TSUTAYAにDVDを借りに行く。クローン・ウォーズのサードシーズンを全部借りて見まくり、眠る。
夜中に目が覚めると、Skypeに女からの着信が30回以上。
こりゃまずいと女に電話。女がブチギレてるので親戚のうちに行っていて思ったより時間がかかったと言い訳。言い訳。

2013年1月24日木曜日

朝起きて、饅頭を豆乳で流し込む。しばらく喰わないで済むと思うと気が楽だ。
親父さんは眠っているので、お母さんにだけ挨拶して、私は日本に出発した。
12時に飛行機は飛び立ち、3時くらいに中部国際空港に到着。そこから名古屋駅についた頃には4時半くらい。今日中に県警で無罪証明書の申請をしなければならないので私はタクシー飛び乗った。
15分後に県警に到着。5時前間に合ったと受付いくと4時半までと言われる。すると受付の姉ちゃんが担当者に聞いてやるから待ってろと言う。
すると担当者のお姉さんが来て、特別にやってやるからついて来いと言う。私はほっとしてガラガラとスーツケースを引きずって県警の中を行く。
面会スペースみたいな所では、結構大声でそこら中で揉めている。パーテーションで仕切られた一角に通される。
担当者にパスポートと免許証とビザの申請書を見せる。いろいろ書類を書かされる。最後に指紋をとるので、といわれ奥のほうにあった機械の前に座らさせられる。コピーみたいな機械で指紋をとられると手続き完了。手配されてる全ての指紋と照らし合わせる。二週間後に結果が出るという。担当者は照合後指紋は消去されるのでご心配なくと続けた。私は保存しといてもらっても構わないと思ったが。
実家に帰る。妹が帰ってきて、日曜日は家にいるかと私聞く。私がいるという答えた。
婚約者を私に引き合わせるつもりらしい。

2013年1月23日水曜日

朝起きて飯を喰い直ぐに出かける。元ルームメイトHと合流する。
台湾の婚姻届には証人として二人の人間のサインが必要だ。そのサインをしてもらうためだ。
本当は女の両親にしてもらう予定だったが、婚姻届には私の生年月日を記載しなければならない。それを記載すると私の干支と女の干支の相性が悪いのがバレるのが不味いと女が言うのだ。ここまで来たら両親も反対はすまいだろうが、ウソがバレるまた叱られると言うので、私がHにサインを頼んだのだ。
Hはフリーのデザイナーなので家で仕事をしている。奥さんは仕事に出てるので、昼休みにでもサインを貰うとして、しばらくHの家で待機する事になった。
Hの部屋でまったりと過ごしている。Hはいろいろヤッてるらしく電話がひっきりなし。Hが直で行くのは面倒くさいのでバイク便ですまそうという。
午後に外交部に書類を取りに行くのだが、家から近いので車で送ってくれるという。
Hの仕事の合間に私が女と家族の話をすると、Hは爆笑している。あぁやっぱりあの家族は変わってんだなとほっとする。
しばらくすると女から電話。もしかしたら今日役所に両親がついてくるかもしれないので、そうしたらやっぱり両親にサインをしてもらったほうがいいので、書き間違えた時ようの予備は白紙にしたほうがいいだろうとグダグダ言う。
私は今更なんだと、何のために時間を割いてもらったと思ってるんだと、答えた。もう下らん気遣いにはウンザリだ。
すると女がさっき役所に電話して確認したらサインは外国人はまずいと続けた。Hの奥さんは日本人だ。
この件は、昨日の夜、外国人で大丈夫かと私が女に聞いたら大丈夫。私は念のため朝イチで確認しろと言っていたのだが、すでに時間は昼近い。
私がHにその件を伝えると、Hはバイク便の行き先を変更。Hの友人で私も知っている人間に電話をいれて問題は解決。
昼飯を食った後、外交部で独身証明書を手に入れ、バイク便からサイン入りの婚姻届を手に入れ家に戻った。時間は六時少し前。
家に帰ると親父さんが娘はいつ帰ってくるのかと私に聞いた。もうすぐのはずだと答えると、サッとシャワーを浴びに行ってしまった。
女が帰ってくる。台湾の役所は水曜日は八時までやっているので時間は余裕だ。がグズグズしてるほどの時間の余裕はない。
私はお母さんにじゃ行ってきますと言って出入り口で靴を履こうとしていたら、準備ができた女が二人でちゃんと挨拶しなければならないとまたグダグダ言い出す。
また二人で料理の支度をしてるお母さんのもとへ。女が喋りだすと、話をぶった斬られて、二人で決めてやればいいからと冷たい感じ。女はなんか困った顔をしていたが、私は気にせず行ってきます。
原付を飛ばして、戸政事務へ。ここは役所の戸籍を管理してる部分だけが独立したような機関。
中は日本の役所と変わらない。
結婚関連の窓口に必要な書類を提出する。担当者は国際結婚に慣れてないようでやけに時間はかかったが、約一時間半ほどで手続きは完了。日本の役所やビザの申請に必要な書類も手に入れ、私たちは戸政事務を後にした。
やり遂げた感は、ある。が、結婚した感は無い。
五年前、私たち二人は全ての状況や法律やら何やらを無視して、精神的には結婚しているという事にした。やはり私たち二人はもうすでに結婚していたのだろう。
家に帰ると、親父さんに手続き完了したと報告。適当な日取りで結婚したのでやはり機嫌が悪い。だが親父さん、勝手にやれと言ったのはあんたなんだ。今までの子供はそういえばあんたの機嫌を伺って動いたんだろうが、私は素直なので、勝手にやれと言われれば勝手にやるんだ。
二人で飯を食ってる時に、女が後で両親に、これからまじめに頑張って仕事を探してどうのこうのと話をしろと言った。茶番をやれというのだ。私はそれを適当に流した。
飯を食った後、居間でくつろぐ親父さんとお母さんに、明日日本に帰って手続きを進めますと報告しひたすら荷造り。
両親が寝静まった後に女が何で茶番をヤラなかったのかと私に抗議。私はこう答えた。その茶番はすでにやったし、結果の伴わない言葉をいくら浴びせても、あの二人の機嫌が良くなることはない、無駄だ。

台湾飯

2013年1月22日火曜日

朝、わたしは3時に目がさめたので、コンビニにおでんを食べいく。それから読書していたら朝。
女がやって来て、今日は休みをとったという。午後から親父さんを病院に連れいていくので、午前に結婚の事を調べ行こうという。
昨日の夜、片っ端から調べた結果、戸政事務所という機関が出てきた。どうも戸籍の管理は市役所がやってるのではなくてここがやってるらしい。サイトに結婚の資料などがあるので間違いない。
私たちは戸政事務所へ向かう。担当者に国際結婚の手続きを尋ねるとテンパる。テンパる。
奥に引っ込んで4,5人で相談しようそうしよう。女が何でわからないの?豚なの?とキレれる。
取り敢えず過去の日本人で国際結婚した前例を見つけ出して、やっと話しが見える。
必要な書類を持って二人ここに来れば結婚できる事が確認できた。
その際に”中国名”の話しが出てきた。外国人が結婚する場合、中国名を申請する。感じならなんでもいいので日本人ならそのままの名前を使える。が、だ。資料を見ると苗字も名前も私が自由に決められるらしい。資料の端っこに変な名前はつけるのは控えましょうとは書いてあったが。
担当者は姓を変えるのは子供が面倒になるので、やめたほうがいいと言う。後二回しか変えれませんからと付け加えた。
名前を変えるのが難しい日本人にはヨダレが出るような話だ。更にいえば自由に姓を変えるなど。変えるなど。
私は女に全部変えてみようかと言うと、絶対に許さないと答え、そんな適当につけたらお父さんが激怒すると付け加えた。
女は、「でも姓を私と同じにするか、今の姓で名前だけ中国ぽくするのはいいけど」と言う。
別の中国名を持つと、日本のパスポートは日本名で、台湾の身分証に書かれるのは全然違う名前とうのは、魅力的だ。意味は無いのだが。
午後女は病院に向かう。
私は再び交流協会へ向かう、昨日ついでに運転免許の関係の書類も申請していたのでそれを受け取り、一息ついたら病院に健康診断へ行く。
この健康診断はビザに必要な書類の一つだ。HIVや梅毒に感染した人間には発行されないのだ。
日本で受けると高いので台湾の病院で済ます。1900元だったので、日本に比べれば激安だろう。
家に帰るとまだみんな病院から戻ってきてないので、さきにシャワーを浴びる。
しばらくして三人が帰宅。親父さんは今のソファーにどっかり。そばに座りどのタイミングで話そうかと伺っていると、説教が始まった。
私が親父さんの台湾訛りの中国語が聞き取れないのを知っているので、親父さんは女にあとで話しとけと言っているが、半分ぐらいは分かった。
内容は、もっと家の事を手伝うもんだくらいから、私が就職したらどう働くべきかというものにまで及んだ。ざっくり言うと、もし九時に仕事が始まるのなら一時間前には会社に行って鍵を開けておき、社長をびっくりさせろみたいなことだった。時代錯誤などというレベルでなく私は失笑した。親父さんはきっと愛想笑いだとでも思っいるのだろうが。
その説教でタイミングを失う。女が飯喰った後にでもと言ってシャワーを浴び行った。
親父さんは上の階の食卓で梨喰うかと声かけてきたので、ハイと返事をした。
ナシを2つ3つ喰った所で、今言ってやろうふと思い。
私は親父さんに、今日、結婚の準備ができましたので、明日結婚しますがいいですか?と切り出した。
すると良い日取りを選ばねばならないと不機嫌そに返答。日本に帰らなきゃいけないし、チケット予約したし、早く申請しなけりゃならないでとまくし立てると、適当な日取りで結婚するのか?とちょっとキレ気味。ここまで強く言われたのは初めてだが、引くに引けないので申し訳ないがと明日じゃないとダメだと答える。
親父さんは、分かった分かったお前らで決めろ!と呆れた7割キレた割とう感じで居間に行ってしまった。その前にお母さんに台湾語で何かいったが、明日結婚すってよ!みたいなことだろう。
何にしろOKなのだからOKなのだ。なんせ日本人は思い立ったが吉日、敵を倒すには早いほうがいいてね!
女がシャワーから出てきたので報告すると、倒れそうだと一言。だがケツがづらせないのでしょうがないと納得させる。
晩飯時、親父さんとお母さんの空気が重い。お母さんも私に普段と違って何も話しかけないので、相当キレてんだろう。
しかし食事も中盤になると、明日の結婚の話しが出てくる。女がどうのこうのと説明している。空気は重いが話のトーンは普通だ。
電話。どうも長男の赤ちゃんが生まれるらしい、あと一時間で。女と母親が病院に直行。
私は晩飯の後片付けをして、ゴミを捨てに行く。女が出かける前に親父さんにもう一度謝っとけというので、折を見て、日取りを無視してすみませんでしたと最敬礼。
親父さんはもういい、もういい、君たちで決めればいいからと、まだちょいギレ。
しばらくするとまた電話。親父さんの表情が明るい。生まれたんだろう。
電話を切ると無事女の子が生まれた嬉しそう言った。これで今日の不機嫌チャラだな。
しばらくすると女と母親が帰ってきた。女が言うには、病院へ行く途中お母さんはキレて泣いていたそうだ。
私はもう今日何を言ってもしょうが無い。これから私達二人がしっかりやって行く事だけが彼らの歓心をかう唯一の方法だと女を諭して、今日のご機嫌取りに決着を付ける。
そしてまた問題発生。
婚姻届だ。当事者以外に証人として二人の20歳以上の人間のサインがいるのだ。
女は当初は親父さんとお母さんに頼む予定だったが、生年月日が書いてあるので不味い!といいだした。
女と私の生まれ年は相性が悪いので、私は一年サバ読んでいるのだ。じゃ私の知り合いに頼めばいいと言うと、二人に書かせないと激怒するだろうからどうしようと言う。
私は法律が変わってんだから、証人の欄なんかなかった事にすればいいと答え、女を納得させ、昔のルームメイトに連絡をとりサインを頼む。
私は中国名の事もまだ迷っていたので、親父さんに頼むのを少し躊躇していた。これは渡りに船、というより、神の啓示だろうと解釈することにし、女をどう説得するか考え始めた。

2013年1月21日月曜日

今日の予定は、行動開始だ。結婚の手続きの。
日本から戸籍謄本が届くので、まずこれを婚姻要件具備証明書―独身証明書に変えなければならない。
婚姻要件具備証明書と婚姻届を持って、台湾人の住む地域の市役所にそれを提出する。これで結婚は完了する、台湾側のは。
午後休をとった女と待ち合わせる。それからそこら中へ電話して手続きの確認。
だがここで面倒な問題が噴出。台湾のお役所仕事は荒い。荒い。
留学していた時の話だ。留学生は一定期間を超えると長期ビザの申請をするのだが、これが中々の難関で、泣かされた留学生の話をあげたら暇がない。
荒いのだ。お役所仕事が。人によって必要な提出書類が違ったりは当たり前で、認められるかどうかは窓口次第という有様だった。
それで私達がぶつかった問題はどこで結婚の手続きをするのか?日本であれば役所一択なのだが、台湾も含め海外でわりと一般的なのが裁判所だ。裁判所で簡略化した式を上げて結婚が認めらるというのだ。その後の日本と同じように市役所へ戸籍を登録し結婚が完了する。
しかし五年前に法律が変わり、裁判所をすっとばして日本のように戸籍の登録するだけで結婚ができるようになった。
まず市役所に必要書類の確認の電話を掛けるが、まず裁判所にいけといわれる。
これだ。法律が変わって5年立っているが知らないのだ変更されたことを。下手をすれば当日市役所で門前払いだ。
取り敢えず時間がないので、台北の交流協会(日本大使館)へ向かう。が、途中でパスポートを忘れていたので一旦家に戻ったので、時間がギリギリになった。
交流会の場所は、女が昔の会社があった同じビルと同じという。じゃ場所は大丈夫だと安心してバスを降りると、女が近くのおっさんに道を聞いている。
同じ場所で知ってるのじゃないかと聞くと、「感覚、感覚よ」と答えた。久しぶりにど天然ブリを発揮。
なんとか交流協会を見つけ出し、戸籍謄本を提出して、日本側の承認を受けた婚姻要件具備証明書を受け取る。
あとは台湾側の認証も必要だ。私たちは外交部―外務省へ向かう。
外交部が閉まるのは5:00。現在時間4:20。乗り換え一回で4駅分くらいの距離。ギリギリだ。
私たちは小走りで外交部へ。その途中で女が何で外交部へ行くの?と私に聞く。10回は説明したろうと怒鳴り私たちは外交部へ。15分前。
申請サッと終わる。受け取りは二日後だ。ついでに外交部のオバサンにビザの詳細な取り方を
教えてもらう。
台湾で申請する方法と、日本で申請する方法がある。
観光ビザで入って台湾で申請すると日本に一度戻らなければならないという。
私達にとって一番早いのは台湾で結婚して、日本で申請する方法。
もともとは台湾で申請するつもりだったが、ある書類をとりに日本には一度戻らなければならない予定ではあったので、飛行機の予約だけはしていたが。大きく計画が狂う。
私と女は取り敢えず台北駅近くのモスバーガーで状況整理と作戦会議。
問題点―ケツが決まった事。2月の12日私両親が来るのでそれまでに私は日本から台湾に戻らなければならない。12日だ。
問題点―申請に必要な書類に無罪証明書というのがある。これは各県の警察本部で申請するのだが、発行に2週間かかる。
問題点―台湾の大使館に当たる機関が日本に少なく、愛知県は大阪支部の管轄になるので、申請に大阪まで行かなければならない。その上、申請は午前中のみで翌日の発行。最低でも16日はかかる上に、大阪に一泊だ。
となると私たちは23日か24日に結婚して、さっさと日本に出発しなければならない。チケットの変更も必要だ。
女がいきなり結婚の日取りを決めたら両親が何というかと険しい表情。日取りを選ばねばというが、もう待ったなしですよ。親父さんには私から話すと女にいった。
帰り道に、女が私が日本に帰る事は両親には秘密にするという。日本に戻るというとチケット代がもったいないだの、無計画だの小言を言われるが面倒くさいからという理由だ。両親には私が泊まり込みで家庭教師に行くといえばいいと言う。
確かに元々は3日程度の帰国の予定だったので、私も女が両親にウソを付くのを認めていたが、二週間以上というのは無理がある。しかも女は一日2000元、日本の金銭感覚なら日給二万円とふいていた、これ以上ウソを重ねると面倒なので、私は日本に帰る事を言うと女は絶対拒否。
家についてからもその議論は続く。
女は今は親父さんの体調が悪くて機嫌が悪いからすごく面倒なことになると、絶対拒否。
だが、いつもこの判断が私たちの状況を悪化させてきた。私は餅は餅屋と思い、女の気難しい両親の対応は女の意見を尊重していたが、ここまで予定がつまるともう私が完全にコントロールした方がいいと判断し、女の意見をはねのけた。面倒は嘘はつかない、と。
女地べたに座り込んで泣いて拒否。本当に今年30かとキレながら呆れる。
私が断固拒否の姿勢を崩さず、しばらくすると30歳にもどって取り敢えず承知した。
夜遅くに長男がやってくる、明日女が親父さんを病院に連れて行くのでその書類を渡しにきたのだ。30分ほどごちゃごちゃやっていた。
普段は長男が病院へ連れて行く担当なのだが、嫁さんがもうすぐ子供が生まれるので明日は女が連れて行く事になっている。
私はもう直ぐ義理の兄になる男に戸籍謄本とともに送ってもらったお守りを渡した。
今夜話そうと思ったが、親父さんはヘロヘロな感じなので、明日話すことにした。
わたしと女はどこで結婚するのかネットで政府関係のサイトを片っ端から調べて、眠った。


2013年1月20日日曜日

朝、女は取り敢えず飯を喰ったら、また原付の練習に行くと言う。
味のない饅頭を味のない熱くて濃い豆乳で流し込む。クソッタレ。
私は着替えて女を待ってると、うえのほうで親父さんの声。女がしばらくしてわたしの部屋に来て無言。無言。
何が少し苛つきながら何があったのか尋ねる。やっと答えた。
いろいろ言われたらしいが、一言でまとめると一体いつになったらお前らは結婚するって話をするんだ?
取り敢えず私は女と外に出て原付でそこらを一周りした後、近くのセブン-イレブンへ。ここは二階もあり、そこは椅子とテーブルがあり話をするのに都合がいい。
私はもう帰ったら話そうと言う。女も同意する。だから早く言おうと言ったじゃないかと少しなじるが、ここまで長引かせた原因の一端はわたしの怯懦にもあるので、そこそこしておく。私に少し引け目を感じてくれるくれればもらいもんだ。
どう話すかと言うことになり、セブン-イレブンの二階で揉めに揉める。女は親父さんを感動させて、安心させろという。が、すでに親父さんにせっつかれるという格好悪い状態なので、もうなんかあれなんだが。
最終的に土下座くらいしたるがなとなり、方針は決定。
マンションに戻ると入口にで親父さんとお母さんにバッタリ。天気が良いから散歩に出てたらしい。
ふたりとも相当不機嫌な様子。
部屋にはいると親父さんは居間の椅子に腰掛けて休憩、お母さんは上の階のキッチンへ。
私は不安そうな女を尻目に親父さんに、ビザがないと仕事探しがままならないので、先に籍だけ入れさせてくださいと言う。
「ハイハイ、いいよいいよ」と投げやりに手を振って答えた。
本当はこの後、土下座して幸せにしますだのなんだの茶番が続く予定だったのだが、じゃりがとうございますと頭をペコッと下げてしまいにすることにした。
お母さんにも話しとけというので、料理中のお母さんに話しかける。さんまを洗いながらあんたたちで決めたらいいわと言われる。
女はふたりともすごく機嫌が悪いと言ってビビっているが、私はOKならOK。勝ったもんが勝ち。
私は肩の荷が降りて安心して、実家の母に取り敢えず籍を入れると報告。

2013年1月19日土曜日

朝、女に起こされる。今日は原付の練習に行くと言っている。
親父さんが私に何回か台湾でも車と原付に乗れるようにしろと言われた。男が車を運転できないなんてというのが親父さんの考えだ。
私は大型の免許も持ってるがペーパーだ。車を運転する時間は人生の無駄だというのが私の考えだ。運転している時に本が読めないというのがその理由だ。移動しながらありとあらゆる事を体験できるのだ、ただ移動するだけのために時間を浪費するのは本当に無駄だ。
この一家は長男を除いて本とか一切読まないようなので、私の考えはさっぱり理解できないだろう。わずかに読んでる本も健康の本ばかりだ。
まぁしょうが無いので原付の練習を始めた。原付にはもともと乗れるので、正確に言うと台湾の交通事情に慣れる練習だ。
台湾は右側通行でアホみたいに原付の数が多くて運転が荒い。原付には二人乗りOKで、制限速度は車と同じだ。
原付の数は日本の自転車より多いかもしれない、だから巻き込み防止のためだろうが、停止線は車用とバイク用の二種類あり、バイクの停止線は車の停止線の前に引かれている。それでも数が多すぎてその停止線で止まっていたら危ないと停止線は誰も守ってない。
あと日本と大きく違うのは、タイヤがついてるのは何でも車道を走ってる。それが自転車だろうが電動車椅子だろがリヤカーだろうが何でもだ。
これは台湾の歩道が段差だらけで、本当に歩行者専用だからしょうが無い。
大体一日練習して家に帰る。女に今日夜話そうかというと、親父さんが体調が大分悪いのでやめようという。
もうそんなことを言って二週間は経つ。そんな事言ってたら永久に言えないだろうと私は女に言った。
女は結局、明日昼飯を食った後にでも話すことに同意した。

2013年1月18日金曜日

朝飯を喰って倦む。倦む。
親父さんとお母さんが出かける様子。
親父さんが昨日買ってきた超初心者向けの日本語の本難しすぎるという。日本語に振られている発音のルビがアルファベットのローマ字表記なのだがわかりにくいので、漢字のルビが振ってあるのを買ってこいという。この本は返品しちまえと言う。が、付録のCDは引剥がしてあるわ、ページは折ってある。その前に日本と同じで不良品でもないのに返品なんかできない。
私はわかったと答えて、これから出かける二人を見送った。
夜、女と一体いつ親父さんに結婚の話をするのか話す。女は明日よほど体調が悪くない限り話そうと言った。

2013年1月17日木曜日

朝出かける前に女が今日は親父さんに喰わせるために寿司を買ってこいという。OKOKどうせ大してやることはない。
朝、親父さんが馬鹿に上機嫌で日本語で話しかけてきた、知ってる単語を並べ立てただけだが。
今日は体調がいいので気分が良いと言う。そして暇な時に日本語を教えてくれという、それで出かけてた時にすごく簡単な日本語の教科書を買ってこいと、私のポケットに1000元札を3枚、無理やり突っ込んだ。
もらうわけには行かないのだが、はいたツバ飲まんとばかりに絶対に返しても受け取らない。あまり無理に突っ返しても失礼だと思い受け取る。
午後、私は女に指示された日本料理屋に出かける。場所は西門。ガイドブックにはたいてい台北の原宿とか書かれる場所だ。
若者が多い場所で、若者向けのファッション関係の店や映画館や飲食店やタトゥーの店が立ち並ぶ。ついで言えば近くにSARSが一番初めに発生した病院がある。
私は30年ほど前に日本人が開業した日本料理屋に向かった。チェーン店で西門だけでも2店舗ある。そのうち一件は回転寿司屋だ。
店に入り持ち帰りで太巻きといなり寿司を注文。待ってる間まわる寿司を眺める。日本と大して差はないようだ。値段はだいぶ高いようだが。
帰り道に本屋によって一番初心者向けの日本語の本を買い帰る。
バスが全然こないので少し遅くなった。扉をあけると親父さんが大分腹が減っていたのか飯だ飯だと声をかけてきた。
待たせてしまったようなので、こりゃ不味いと思い、これ買ってきたよと寿司を渡す。親父さんは一瞥して上にもってけと言っただけ。
あんま寿司好きじゃないのかと、とりえあえず寿司をテーブルに置いて、自分の部屋に上着と荷物を置きに行く。
その間に親父さんは中身を再確認。すると大声で寿司買ってきやがったぜ!!テンションが上ったようだ。
やっすい何の変哲もない太巻きといなり寿司だが大喜びで食べている。
親父さんは最近、食欲がなく3キロ痩せたといっていたので、女が大好物を私に買いに行かせたのだ。あとで聞いたら二年ぶりくらいに食べたそうだ。病気になってからまったく好きなものを食べていないという。


2013年1月16日水曜日

ここ数日、珍しく晴天が続いている。朝飯を喰った後、今日も天気が良いので私は布団を干す。屋上で布団を干したついでに家庭菜園の虫をつまんで捨てる。
親父さんが来るかとしばらく待ってみたが来ないので、屋上から降りると、ネットで株のチェック。
大分不機嫌そうなので話しかけるのはやめた。まぁ体調が悪くて、死にかけてるのは言い過ぎだとしてもそれに近いような状態なのだからしょうが無いだろう。
昼飯を食ってる時に台湾でも車を運転できるようになったほうがいいと盛んに言われる。私はわかったと答えたが、なにせペーパーなのでこの問題を解決するには手間がかかる。
午後は外出してKindleで浅田次郎を読みあさる。
夜、女と相談して先に結婚に必要なモノをあつめる準備を始めることにする。

2013年1月15日火曜日

朝、寝不足気味で起きる。起きる。
飯喰った後に親父さんが家庭菜園の手入れしてる時にでも、手伝いながら結婚の話をする予定だ。
飯くいながら緊張していると、女が「ちゃんと綺麗に虫をとるのよ!」農薬を使わないので虫をて社業で駆除するので―そういう意味だが、これにはカチンと来た。
女はそのまま仕事へ。
こっちが昨日の夜から土下座の予行演習までして、備えていたのに頑張っての一言も言えないのかと、私は相当頭にきた。
取り敢えずこの怒りを収める為に、女にメールを打つ。とにかく文句の一つでも伝えないと収まりがつかない。
メールを打ってる最中に女が会社についたらしく(家から10分くらい)、チャットに入ってきた。
私はチャットで不満をぶちまけた。先日の掃除の後に礼の一つもなかったのもあり、私の怒りのテンションは上がった。
しばらくチャットで喧嘩。一時間ほどすると女が全面的に非を認めたので終了。
そうこうしてるうちに親父さんは家庭菜園の世話を終えて下に降りてきていた。どっちにしろ今日は私のテンションがこんな状態では話す気になれない。
午後は面接に行くと外出する。まぁ結婚ビザがないと就職活動もままならないので、格好だけなのだが。
夜私が帰ると、家に誰もいない。確か今日も病院に検査に行くと聞いていたがまた遅くなるようだ。
女が帰ってきて二人で飯を喰う。
しばらくすると病院から帰ってきたが、大分テンションが低い。
それを見た女が結婚の話はまた別の機会を見ることにしようと言った。

2013年1月14日月曜日

朝起きて女が仕事に行き、それから何もなく昼飯を食わしてもらい、何となく外出。
モスで時間を日記を買いたり時間をつぶす。
帰りに女が親父さんん用に牛乳を買ってこいというので、スーパーへ。
台湾の牛乳は大きく二種類に分けられる。砂糖が入ってるのと入ってないの。更にそれが低脂肪やらなんやらと種類が多い。
親父さんは食事制限をしてるので、ドンピシャのを買ってかなければならない。メールでこれを買ってこいと言われたのとドンピシャがない。
私は女に電話したが出ない。20分待ったがナシのつぶて。間違ったの買っても怒られるので、帰るが、途中で電話が掛かって来て、無事買って帰る。女から私が自発的に買ったことにしろと言われるが、こんなドンピシャなのをいきなり買ってきても誰も信じない。
帰って親父さんに牛乳飲みます?と渡すが、直ぐに誰の指示かはバレる。
夜、本当は結婚の話をする予定だったが、そうとう具合が悪いというのでまた見送り。
二人が眠ってから、女と相談。朝なら比較的体調が良いので朝話すということになる。
女は、早い話土下座くらいした方がいいと言う。
私も実のところ、土下座くらいかましてやるかと思っていたので、同意する。
勝負を明日の朝と定めて、私はセリフと土下座の練習を深夜までした。下手な発音で話しが伝わらなかったら、ただいきなり土下座しただけでは、目も当てられない。

2013年1月13日日曜日

朝女に起こされる。今日は女の両親の新しいマンションの掃除を手伝わされる予定。予定。
女の両親は今住んでるマンションの他に3つほどマンションを持ってるらしい。
で、一番新しいマンションに近々引っ越す予定なので、そのマンションの部屋の大掃除をするので私も駆り出された。
その新しいマンションは築6年の高層マンションで、2階下には長男夫婦が住んでいてもうすぐ孫も生まれるのでそっちに住んだほうが便利がいい。中華的な文化圏の人たちは、子供を祖父母に預けて育てもらうとうのは普通によく聞く話なので、同じマンションなら好都合なんだろう。
掃除道具を積み込み出発。
マンションは12階で部屋数は居間、台所以外に三部屋に浴室兼トイレが2つ。こっちはメインの浴室兼トイレに加えて大体寝室にもう一個付いている。
部屋の中は前の住人が引っ越した後のままの状態。いろいろ細々したゴミも残っており、古いPCのモニターが床に転がっていた。
取り敢えず浴室兼トイレを掃除してと言われ、掃除開始。この両親はかなりの潔癖症なので徹底的にやらされる。アホみたいにバスタブをピカピカにして完了の報告をすると、バスタブは母親に掃除無くていいといわれる。
そして次の浴室兼トイレの掃除。こっちはメインで使われていたほうで、ばっちり汚れが残っている。何で私が知らん奴のクソがついた便器を磨きあげなあかんねんと、便器を磨きあげ、床も磨き上げる。
その後、昼飯の弁当を喰った20分かそこら以外はノンストップで掃除を続ける。気がついたら親父さんは早々に体調が悪いので、消えていた。
夕方くらいにそろそろ終わりかという時に親父さんが来る。声を掛けるが不機嫌そうに無視され、終ったのかと尋ねられる。私は態度ワルすぎやろと思いながらも、あと少しで終わると答えた。
親父さんとお母さんと長男が台湾語で(私にはわからない)で、いろいろ相談している。女に何をはしているのか聞くと浴室兼トイレの改造計画を話し合ってるという。
バスタブを取っ払って、洗面台を取り替えようという内容らしい。じゃもうそれ先やってから掃除せんと意味ねぇじゃねぇかと半ば呆れた。
親父さんはトイレについていたトイレットペーパーを設置する台が気に入らなかったらしく、ドライバーを出して外したりしている。が、改装するならそん時に綺麗に外してもらったらええやん、ボケとんかジジイと小声でつぶやく。
そんな相談も終わり、荷物を片付けさぁ帰ろうかという時に、親父さんが床の端っこに何かワックスの乾いたのがこびりついてると言い出しそこだけ掃除するハメになる。どうせまた改装後に掃除すんだからそん時でいいだろうがと思うが、やる。本当はどんだけ段取り悪いねんおっさん、お前仕事デキへんやろ!と小突き回してやりたいが、しょうが無い。
”親しき仲にも礼儀あり”これは日本人だけの考えだ。こっちの人間は身内になると途端にありがとうもすいませんも一切言わなくなる。
女もちょっとしたことでは、絶対に謝ったり礼を言ったりもしない。
今日だいぶ働かされたが、ねぎらいの言葉は長男の嫁がお疲れ様と言ってくれたくらいだ。
特に親父さんとかは機嫌悪そうなだけで、何の言葉もなし。まぁ身内に認められと思うかと無理やり納得する。が、親父さんは家にいる時にちょっとした事を手伝うと大げさにありがとうありがとうといってくれていたのに、今回は無言ということは、じゃあれは嫌味かなんかで言っていたのか?
私は大分、嫌ーな疲労感に包まれた。
そしてやっと鍵閉めて買えるという時に、お母さんが扉格子を指でなぞる、指先が真っ黒。扉をそうじしていたのは、女。掃除が足りん!みたいなことを言われている。
私は最後の最後に、みんなで気持ちよくお疲れ様でしたで終わったらいいじゃないの!とビンタしてやりたかったが、あまりの嫌ーな疲労感にもうどうでもよくなった。
家に帰りお母さんが晩飯の支度。
女が私にお母さんに疲れてるのに申し訳ないと言って来いというので、私は笑顔で疲れてんのにすいまえんねぇお母さんと声を掛けた。
お母さんは、こっちこそ恥ずかしくて申し訳ないという感じの事を盛んに言ってくれたが、ありがとうの言葉は絶対に出てこない。
今日もし機会があれば親父さんに結婚の話をする予定だったが、私にはもうその気力が残されといなかったので、早めに寝ると女にいったら、あんま早く寝たら両親がビックリするから両親より遅く寝てと言われ、私はキレた。何がやねんと。

2013年1月12日土曜日

朝、熱い豆乳で饅頭を胃袋に無理やり流し込み食事を終える。
今日は一日中でかける予定だ。普通なら女と出かけるところだが、一緒に一日出かけるとまた親にグダグダ文句を言われると言うので、私は一人でバスに乗った。乗った。
目的地は北投。温泉街だ。
こっち来て以来、湯に浸かった事がない。こっちの連中は毎日シャワーを浴びるが、風呂には入らない。その習慣がない。大抵の家にバスタブがない。ついていても取っ払う。女の家も取っ払われている。だが日本統治時代の名残で温泉街は有る。
北投もそんな温泉街だ。大抵がホテルが風呂屋やってるパターンで、そこら辺は日本と大差ない。
電車をおりしばらくブラブラしたが、一番新しく綺麗な風呂屋に入った。値段は600元、日本円で1800円くらい。
公衆浴場だと水着つけきゃいけないところもあるが、ここは水着は必要無いようだ。地下のくらい感じにジャグジー、サウナ、スチームサウナ、水風呂とほとんど日本と大差ない。
違うのは、サンダルがあるのと、サウナがヌルいのと、バリ風のベンチがあったりするくらいだ。
客が私一人だったので、久しぶりにサウナと水風呂を堪能した。
そのあとカフェでコーヒーを飲みながら休んでいると女からメール。お母さんと私のことを話したという。先に結婚しなければ仕事を見つけるのが難しいと。私が反応はどうだったか尋ねると少し起こっていたという。少し。悪くない反応と観ていいだろう。帰ってから詳しい話を聞くことにする。
その前に晩飯。留学生時代通っていたタイ料理屋でたらふく喰い帰る。
家に帰ると女の両親が笑顔でお出迎え。お母さんにだけ話したらしいが、とくに表情に普段と違うことは感じられない。
夜二人が寝てから女から話を聞く。
お母さんが私の仕事探しの状況を尋ねられたので、結婚ヴィザがなければにっちもさっちもいかないと伝える。
お母さんは不機嫌になり、もし結婚して私が直ぐに日本に帰ってしまったらどうするのか?とか台湾は日本より給料が安いのにとか、私は長男なのに台湾に来て大丈夫なのかとか、いろいろ言われたという。
それを聞いて、そんな話は私が来る前にせえよ、こっちは百も承知で来とんねんボケとんかババァとキレる私に女は答えた。
私は日本にも簡単に帰らないし、私も家族の承知で台湾に来ていると伝えたという。
女がそこまでハッキリ親にモノを言うのは珍しい。私は女に礼を言った。
一時間も話して、私たちは眠った。次は私が親父さんにとりえず籍だけ入れさせてくれと頼まねばならない。

2013年1月11日金曜日

女から毎日、外出するとおかしいと言われ、今日は家でおとなしくする事となった。
やる事といったらネットだけ。三食味ない飯を喰って過ごす。
女の両親は何回か出かけていった。親父さんは退屈だったら出かけろよみたいな事を言ってくれたが、あんたの娘が私をここにとどめているのだ。
女が帰ってきて、明日は一日出かけるとキレて宣言した。

2013年1月10日木曜日

昼飯を喰ってから家を出て、モスバーガーへ。バーガーとサイドメニューのからげを喰う。
暇つぶしにKindleでヒストリエを1巻を読む。一気に7巻まで買って読む。読む。
サイドメニューの唐揚げだけをもう一個喰って、コーヒー飲んで読む。
女が数回帰って来いと電話があったので面倒くさいから帰る。
家に帰ると飯。何か女の両親は機嫌が悪そう。メニューは台湾ではよくあるトマトのオムレツ。
親父さんは食事を制限されているので、卵を一口二口くらいしか喰ってないが、もうストップ。お母さんに超強引に阻止される。
こんな食生活してたらストレス溜まってしょうが無いだろう、このストレスも体調が悪い原因の一つじゃないかと思うが、好きに喰っても体には良くないし、最悪の状態だ。
とは言えちょっと喰うくらい問題ないと思うのだが、この家の人間はここらへんは完璧主義なので、本当にちょっとしか食べたいものも食べさせてもらえない。

2013年1月9日水曜日

ずっと家にいると何もないので、何となく近所のバス停へ。5,6線のバスがこのバス停に停まる。停まる。
どれに乗っても何処かの駅には行けるようだ、私は最初に来たバスに乗り込んだ。
目的も無くフラフラ、地下鉄に。
昼飯は家で家で喰わせてもらったのだが、全然味のない焼きそばだったので、味がある焼きそばが喰いたくなり、適当な店で焼きそばを喰いまくる。
それで気が済み家に戻る。
家に帰ると親父さんがあんまりストレス溜めないようになと言ってくれる。

2013年1月8日火曜日

今日は女が両親に私が面接に行くとウソをついているので出かけなくてはならない。
女は両親の機嫌を良くする為にさっとウソをつく。厳格で細かく気分屋の両親と暮らしていた為に身についた習性だ。兄の方もこの傾向がある。私はこの親子を見ていて甘やかし過ぎるのも問題だが厳しすぎりのも同じくらい有害な問題だとつくづく思う。
一見この家の子どもたちは、親の言うことをよく聞き、何でも言われたとおりにする。兄も結婚し家を出ても週末には必ず帰ってきて一緒に食事をとる。理想的な仲の良い家族に見える。が、その実細かいウソから大きなウソまでウソが家の中に溢れている。
私も両親にウソをついた事はもちろん何度もある。が、ここまで日常的にウソをついたことはないし、大きな隠し事もない。
例えば女は大学4年生の時に成績が悪く落第した。しかし親にそれを言い出せず、卒業できたと報告し、結果自主退学した。この家族は皆善人ではあるのだが、何かが少しねじれておかしな感じなのだ。
まぁとにかく出かけなくてはならないので、昔のルームメイトと昼飯を喰う約束を取り付けた。
時間になり家を出るが、女に教えてもらったバス停の場所を忘れた。一回原付の後ろの乗っけられてさっと歩いて10分くらいの道を説明してもらったのだが、他にも幾つかの道を教えてもらった事もあり、ごっちゃになって思い出せない。
しょうがなく女に電話するとキレられる。仕事中なので10秒以上は話せないといった感じで電話は切れた。
雨も降ってきて、時間にも遅れそうだ。面倒くさいのでタクシーに乗り込む。80元なので日本円にすれば300円以下だ。
女から再び電話がかかってきたのでタクシーに乗ったというと散々罵られる、後でメールでも罵られる。
もう面倒くさいので、無視して元ルームメイトとのランデブーポイント:萬華駅へ。
10分前に到着する。もちろんルームメイトは着てない。10分後に電話するともうすぐつくとの返答。
日本人は約束の10分前に到着し、台湾人は約束の10分後に到着する。という話は日本人と台湾人の比較によく引き合いに出される話だが、今日は偶然だがその通りになった。
元ルームメイトHは私と同い年の35歳で、職業はフリーのデザイナーだ。Hは日本人の女性と結婚している。
私がもともと日本人の留学生仲間と一緒にルームシェアしていたが、仲間が出て行ったり、帰国したりした時に、ネットで新たなルームメイトを募集した時に知り合った。
私たちは馬が合い、以後一年は私が帰国するまで一緒に暮らし、その間いろいろ助けてくれた。
約束の時間から10分後にHが私を車で拾ってくれた。そのあとまともに味のある飯を喰い、コーヒーを飲みながら数時間話す。
私の現在の状況を話すと、一緒に住んでるくらいなのだから先に結婚するのはほぼ大丈夫だよと言ってくれた。この一言に私は大分安心を覚えた。
その後は、Hが最近主催しているイベントの話になる。Hは台湾、日本、韓国の主に留学生を集めて交流会を開催している。
ほとんど一人で準備しているらしく大変だと話していた。私は前回顔だけだしたのだが、中々面白そうなので運営に空きがあればイッチョ噛ませろと頼むつもりだったのだが、空きもクソもなく二つ返事だ。
それから家に帰るが誰もいない、いない。女の両親は病院だ。ここ毎日微熱が出るとかで検査にいっている。
女が帰ってきて、先に一緒に飯を喰う。それから電話がかかって来るが大分悪いらしい。
女が2月に私の両親が来るのだがやはり会えないかもしれないので来ないほうがいいと言うので、母に電話し謝る、チケットのキャンセル料は出すと話す。
大して怒ってはいなかったが不愉快さは伝わってきた、それならいつ行けばいいのかと聞かれる。
わからないと答えるしかないのだが、元々女の両親が何度も会いたいというので、頼んでいたのだ。
また母はいろいろな活動をしていて多忙なので、その時期にあわせて色々予定をたていたので大分もしわけないことをした。
女がお詫びのメールを書くので、怒らないようにはどう書けばいいかと聞いてきたので、それほど怒ってはいないが、もうすでに怒っているので、どう書いても無駄だ、とにかく謝れと言った。
女がしょうがないからどうのこうのと言うから、それをきっかけに、申し訳なさとストレスで私の怒りが女に向いていしまう。
私が今回の件で引っかかってるのは、女の母親が私に、仕事を見つけて落ち着いてからの方がいいんではないかと言った事だ。
それなら私が台湾に来て直ぐ2月に呼ぶが予定はどうだと聞いた時に言えば良かっただろう、それ以前に数年前から何度も親を呼べ呼べ言ってたじゃねぇかと、あれは何なんだと私が言うと、女は申し訳なさそうに母親の性格だと答える。
だいたい親父さんも具合は確かに悪そうだが、飯は食欲はないとはいえ飯は三回食ってるし、昼間はテレビ見たり買物とか行っている。私の両親と会えないほど悪くないだろうというのが私の正直な意見なのだ。
女はこれから悪化するかもしれないから頼むといい、素直に何度も謝るので、私も落ち着いた。
女はとにかく普段自ら謝らない。女に原因があり喧嘩になった場合、私が徹底的に女の非を指摘して強制しないと謝らない。
それが素直に何度も頭を下げて謝るので、私はこう言った。
私が本当に怒りを感じているのはお前の母親にだ。良い人であるのはわかるが、今後このようなその場の感情に任せた態度で重大な事をいきなり翻してもらっては困る。もう私の両親には私から台湾に来てくれと頼めない。今後もしお前の母親が父親の体調が良くなって、機嫌よくいきなり来てくれと言われた時には、私は怒りをコントロールする自信がないので、良くい含めておけ。
女は渋々承知した。
夜の10時半を超えたが両親は戻ってこない。女が寝ようというので私も眠かったので眠った。



2013年1月7日月曜日

朝起きだし、女の母親に挨拶し飯を食う。メシはオートミールにパン。
今日は何の予定もない。
ここ数日で台湾の就職事情がハッキリと分かった。現状ほとんどの会社が日本人を採用しない。労働ビザの申請が面倒くさいからだ。例外は管理者の経験が長く、業界の事情に精通しているとかそんな人間だけだ。私にはそんな経験もないから普通ならお手上げなのだが、労働ビザを申請しなくてもよいなら日本人を雇う、つまり台湾人と結婚した日本人だ。
転職会社のおっさんも言っていたが、結婚ビザさえあれば探すのはグンと楽になるし、応募が来て無くてもガンガン営業を掛けてくれるそうだ。
先に結婚さえしてしまえばさほど給料や内容に拘らなければ、喰っていけそうだ。
問題は、女の両親にそれを納得させる事だ。女は今は父親の健康状態が悪いので話さないほうがいいというのでタイミングを図っている状態で足踏みだ。
取り敢えずこの家にいると息が詰まるので、転職会社の面接に行く事にして、出社する女と一緒に家をでる。
私は女の父親が貸してくれたそこそこ高いマウンテンバイクに乗り、駅に向かった。
駅近くのモスバーガーで数時間時間を潰し、電車に乗り込む。昔、言語留学中に通っていた師範大学に向かう。
大学の近くには飲食店が集まり、夜には屋台も出てきて師大夜市として、昼から大学生と留学生で賑わっていた。
だが数年前に屋台が一斉にヤラれてしまい、今は大分閑散としていると聞いている。
久しぶりに訪れたが、その話は本当のようだった。店舗を持っている店はもちろん健在だが前のような活気は完全に失せていた。
行きつけの店のほとんどは潰れていたが、ほぼ毎日のように通っていたカフェは健在だったが、ほとんど客はいなかった。
昔は適当な店でメシを喰い、このカフェで仲間たちと話をしたり勉強したりして、夜まで時間を潰していた。大抵の日本人留学生がこのカフェを使っていたので、行けば必ず知り合いがいる店だった。
私が訪れた時間は午後の3時くらいだったが、店にほとんど客はいなかった。

2013年1月6日日曜日

八時前に目が覚める。目が覚める。
昼に女の兄夫婦が来て一緒にメシ。食卓には普段より多めの皿が並び、何故か鍋が2つ。普通はスープが一種類なんだが、2つ有る。
女の母親がカレーだよと一言。そういえば日本では何を作ってたのかと聞かれてカレーとなんとなく答えたので気を使ってくれたのだろう。
日本でカレーと言ったら、皿にご飯が盛られそこにカレーをかけて喰う。他に主にオカズは出てこないのが普通の感じだと思うが、この家ではなんかオカズの一種としての扱いのようだ。
嫌な予感しかしなかったが、茶碗にご飯を盛ってカレーをかける。シャビシャビでほとんどスープ。味もなく小学生が生まれて初めて作ったような失敗作。とは言え気を使って多めに食べる。
私はもう二度とこの家で普段作らないような料理名を会話で出すのは避けようと誓う。
両親と兄夫婦はCOSTCOへ買物へ出かけた。私と女が残された。
女は私のありとあらゆる行動を両親が気に入るようにしようとしている。もしも両親が気に入る呼吸の仕方があればそれを私に強制するだろう。
さっきの食事でも箸を置くときの動作の力が強すぎるとか(常識の範囲で普通に動いているだけだと思うが)、もっと野菜を食べろとかグダグダ始まった。女の母親が私があまり野菜を食べないとか、魚ばかり食べてるとか、文句を言っていたと言う。
私にわからないようにまた台湾語でブツブツ女に文句を言っていたのだろう、陰険な性格の悪いババァだ。
私は相当気を使ってあの糞不味いカレーをガブガブ食べた事もあり、キレる。
俺は全てのオカズを美味かろうが不味かろうが笑顔で食べてるし(ほとんど不味いが)、魚ばっか食ったのは誰も食べてなく残っていたので気を使って食べたのだ、何でも大体クエクエうるせ~から食いまくってんじゃねかと、キレた。
しばらく女は黙ったままだったので、自分の部屋に戻り、ベッドに寝転がる。
しばらくすると女が謝りに来た。しばらくカリカリしていたが、ちょっと眠ったら何となく落ち着いたので二人で出かけ、コーヒーを飲んで戻ってくる。
夜食事が終わり、女がシャワーを浴びていて、居間には両親と私の三人。
去年くらいから、女の両親に何度も私の両親と会いたいと言われたので、私と女は2月の旧正月に両親を台湾に来させる計画を立てていた。
私がこの家にきた一日目にも大体2月を予定していると伝えて、いつが良いか聞いたのだが、いつでもいいよと答えが帰ってきた。
今日の昼、私の母からチケットを予約したというので、その事を伝えた。
てっきり私はそっちの要求通りに事を運んでいるので喜ぶのかと思ったら、女の母親の顔が明らかに曇る。
2月のその時期だと兄夫婦の出産と重なるからどうのこうの、私の仕事が決まってからのほうがいいんじゃないかとかいろいろ言い出す。
一日目に言えや、と喉まで出たが、それを飲み込む。寒気と怒りが体の中で渦巻いている。女がシャワーから出たら話そうというので、暫く待つ。
女がシャワーから出てくると、話が始まる、台湾語で。女は北京語で答えているので何となくはわかるが、北京語で話せやとテーブルを蹴りたくなる。
女が何となく善戦しているのはわかるが、それだけしかわからない。父親はテレビから目を離さず二言三言言ったが、台湾語なので分からないが、来たら来たで大丈夫みたいな事を言ったが気がする。
話が一段落ついた所で、女が洗濯するというので手伝うとついていき、ミーティング。
女が言うには母親が相当気分悪く怒っているという、父親は私が聞き取れた通りの来たら来たで大丈夫という感じの反応だたようだ。
今さら何を言ってやんがクソババというのが私の意見だ。が、しょうが無いので母親に謝ってチケットをキャンセルしてもらうしかない。
話し合いの最中に女にも少しキツイことを言ってしまったので、それを謝り、取り敢えずキャンセルを頼むということで居間に戻る。
居間に戻り女がそれを伝えると、今度はそれは私の母親に悪いので、私達二人でどうするか決めろと言う。
脳みそ沸いとんのかババァ、と壁にでも叩きつけてやりたいのを堪える(こんな私を受け入れてくれただけでも感謝すべきなのだと、何度か心で繰り返して)。一応私の両親を台湾にこさせるということになる。
その後、もっと頻繁に相談すべきだった勝手に決めて申し訳ありませんでしたと頭を下げる(全然勝手には決めてないのだが)。すると女がそういうことをしっかりと伝えなかったのが悪いのであって、私のせいじゃないと言われる。涙が出そうになるが、それは制御できない一歩手前の怒りがもたらした物だ。
それから夜、女が兄にも相談。女は泣きやすい性格で電話しながら泣いていた。私と両親と私の両親への思いで多方面から挟まれているのだ。
一時間ほどしゃべっていたが、父親の健康状態が相当悪く水曜の検査次第ではそれくらいにまた手術するかもしれないから、キャンセルさせたほうがいいかもしれないと言われる。
兄貴は私のストレスも心配してくれて、女の実家を出て自分の家にすめといってくれた。出産のため一ヶ月家を開けるのでその間限定だが、ありがたい申し出だ。
しかし私が女の両親がそれに同意するかと尋ねると、女は両親には友達に家に泊まることにすればいいという。
女に取り敢えずキツイことを言ってしまったことを謝り、私たちは眠った。


2013年1月5日土曜日

朝起きる。前日の夜、女に指示されていた通り電話を掛ける、女に。
一挙手一投足、私が両親に気に入られるように行動させようという女の計画だ。10分待てと言われる。
10分後、すでに起きていた母親に挨拶し、メシを喰う。
土日なので週明けから仕事探しをすると話、今日明日はこの家でのんびりするハメになる。
両親はかなり私に気を使っているようだ。
台湾では所謂、中国語と言われる北京語が主に使われているが、他にも数種類の言語が使われている。駅とかの公共の場所でも数種類の言語のアナウンスが流れる。北京語の次に来るのが、台湾語だ。大部分の人間が台湾語と北京語の両方を話す事ができ、年齢が高い人間ほど台湾語を日常的に使う。また南の方に下ると台湾語を使う傾向が強くなる。
ここの両親も会話の半分は台湾語だ。私は台湾語はさっぱりわからない。
その上年齢が高い人間ほど北京語も台湾訛りが強くなるので、両親の話は本当に分からない。
私は台湾で中国語を覚えたので台湾訛りは多少は慣れているのだが、高齢者の訛りにはついていけない。
女が仕事探しの合間にでも、日本語を教える家庭教師のバイトをやったほうが良いと言い、数カ所にネット登録をした。

2013年1月4日金曜日

朝起きて、映画を観ながらラブホを引き払う準備。今日から女の実家に移動する為だ。
昼頃、荷物を片づけ受付に鍵を返す。長期滞在してたが、ありがとうの一つも出てこなかった。
女が仕事を終えるのを待って一緒に移動する予定なので、しばらくは時間を潰さなければならない。
駅のコインロッカーにスーツケースを預け、板橋行きの電車に乗る。
私がいつでもネットできるように、女がデータ通信端末を借りてくれていたのだが、今日が返却期限。板橋の中華電信の店まで行き、データ通信端末を返す。
暇なので少し台北駅付近をぶらつき、飯を喰う。ワンタン麺と炒飯。こっちの人間じゃほぼしない食い合せだ。主食と主食を一緒に喰う感覚らしい。
また電車に乗り新北市まで戻る。駅近くのモスバーガーに入る。24時間営業でコンセントがある席もある上にWIFLYというwi-fiサービスも使えるのでうってつけだ。
WIFLYは台湾の大抵のコーヒーショップ、ファストフード店、コンビニでwi-fiが使える。料金は一ヶ月でも500台湾ドル、全く問題ない。
PCからそのままカードで料金を払って使える、面倒なのは身分確認に携帯電話が必要なことぐらいだ。
バーガーを喰いながら、iTunesで極大射程をレンタルして時間を潰す。何故か急に極大射程が見たくなった、理由は、分からない。
極大射程が終わったくらいに女から連絡が来た。合流するが移動する前にコーヒーショップでミーティング。
女は両親に、私が今日到着したと伝えてあるので、それに合わせること。
本当は今日にでも、さきに結婚させてくれと頼むつもりでいたが、今日来たばかりでいきなりはないだろうとなり、明日か明後日、父親の健康状態を見て、頼もうということになった。
女の父親はガンの手術をして数年経つが、まだ体調が良くなく、何度か手術をしている。最近また特に体調が悪いから、体調を見て機嫌がいい時に話したほうが良いという結論だ。
女の実家は6階建てのマンションだ。5階と6階の部屋を所有しており、改装して中でつながっている。
女の両親は、私から言うとはっきり言って変人だ。
特に子供に異常なほど厳格で、女の兄貴が27.8歳の時に髪を茶色に染めたのだが、ブチ切れてエライ騒ぎになった。特に母親はしばらくの間口もきかなかったらしい。
私が到着すると食事を中断して、歓迎をしてくれた。私達もそのまま食卓につく。
この一家は健康マニア家族だ。父親の健康状態が悪くなってからは、更に、だ。
食卓に並ぶ料理は台湾のくせに油っけが全くなく、それどころか味もない。味のない家庭菜園で作った有機野菜と魚だけの食卓。肉はほとんど食わない。台湾人の中ではかなり珍しい食生活だ。
その生活は質素そのもの、酒なんぞ一滴も飲まず飲むのは水とお茶だけ、趣味は旅行と家庭菜園。普段は家庭菜園の世話とテレビと経済雑誌をみて過ごしている。
私だったら酒でも飲まなければやってられない生活だ。
食事が終わると、私は女がもともといた部屋に済むことになる。女が荷物を空き部屋に移動させるから少し待てと言い引越しを始めるが、ものの三十分で作業は終了する。
私がこの一家に感じる変人感の数ある中の一つは、このモノの少なさだ。女は事前に準備もしてないのに三十分で全ての荷物を移動させた。
これはこの部屋というか一家全体的に言えることだ。本当にモノが少ない。すごくガランとしている、
生活感を感じないほどに。
女の部屋を例にあげて言うと有るのはベッド、机、衣装箪笥、棚。そこにすべてのモノが収まっている。有るのは服、化粧品、ノートパソコン、身の回り品の細々したものくらい。本やら雑誌やらCDやらDVDやらかさばるものが全くない。強いてい言えば本が数冊程度だ。この部屋全体もそんな感じだ。
私のような人間がこの家で暮らしていけるのだろうか。





2013年1月3日木曜日

遅く起きシャワーを浴びヒゲを剃る。久しぶりにスーツを着て出かける。
台鐵とMRTを乗継ぎ、中山駅へ。会社に向かいながらもし中国語で自己PRしてくれとかいわれたらどうしようかと不安になるが、もうどうしようもない。
受付には日本人。狭い面接スペースに通され、すぐに電話で話したおっさんが来る。
砕けた雰囲気で話は始まった。こっちの経歴や状況を説明する。おっさんが語る現在の台湾の事情は最悪。今はほとんどわざわざビザを申請する手間まで掛けて日本人を雇わない。だが結婚ビザさえあれば仕事は絶対にあるという。
おっさんの話の行間を読むと結婚してから出なおせ。
OKOK。いっちょ女の親と勝負って話だ。
ラブホに帰って休んでると女が来た。
今日の話を説明する。普通ならさっさと結婚すればいいんだが、アホみたいに厳格な親を納得させなければならない。女が反対されるかもしれないとか怒るかもというので、35歳で仕事もクソも何かもほっぽり出して台湾にやって来て、クソ安い給料のクソ仕事探す為に結婚するのを反対されたらブチ切れそうだと話すと、女に泣かれた。
泣きたいのはこっちだが、しょうが無いのでちゃんと説得するから安心しろと慰める。

2013年1月2日水曜日

今日はやっと職探しの予定がある。といってもただ電話するだけだが。
台湾で日本人や日本語を喋れる連中専門の転職会社だ。
日本にいた時にすでに履歴書だけは送ってあり、台湾に来て正月が開けたら電話するように言われていた。
電話すると明日、話だけ聞くからパスポートだけ持って来いと言われる。OKOK。
あとはやることが無くなる。iTunesで映画を観る。5年前に留学していたときはこんなサービスはなく映画やら漫画やらからは完全に取り残された。取り残された。
今はiTunesにKindle。これぞネットだ。
見た映画は岡本喜八の”激動の昭和史 沖縄決戦”こんなマニアックな映画がラインナップにはいってるとはAppleは中々のもんだ。レンタルも無くて困っていたのでちょうどよかった。
内容は暗いので薄暗いラブホでがどんどん暗くなった。
気に入ったのはラスト近くの司令官の二人の切腹のシーン。切腹の時間稼ぎに部下が砲弾の中に突撃させられていく。部下は火炎放射器で焼かれるわなんやロクな死に方してないのに、人格者の司令官はのんびり切腹。やっぱり今もそうだが、昔から幹部の考えることはわからん。

2013年1月1日火曜日

女が休みで朝にラブホに現れる。予定では明日から実家に移る予定だ。しかし女が金曜までここに泊まれという。私はこのラブホにウンザリしていたので抗議の声を上げるが、しょうが無い。
両親が田舎に帰っているので、母親がその間私たち二人だけで家にいるのが嫌なのだそうだ。もう三十の娘が婚約者と何かないほうが心配だ。
女が私の破れたジーパンを見て服を買いに行くと言い出す。二年間ほどほぼ毎日酷使していたので当たり前だ。とにかく言うことを聞く。
板橋まで移動する。昔は―数年前は何もなかった場所だが、今ではそこら中に高層マンションとデパートだらけになっていた。駅ビルを歩き回っているとちょうどEDWINの去年のモデルが半額で売られていた。ジーパンとシャツとついでに靴を買う。私はめったに服を買わないのだが、気に入ったのが手に入り御機嫌だ。
あのEDWINの店に偶然入らなければUNIQLOでジーパンを買わされる所だった。UNIQLOは悪くないが丈夫な服を買うべきじゃない。
買物遠征が終わるとまたラブに戻る。あと数日ここにいなければならない。